山川義太郎
日本の電気工学者
山川 義太郎(やまかわ ぎたろう、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和8年(1933年)1月27日)は日本の電気学者。
経歴
編集武蔵国高麗郡下赤工村(現・埼玉県飯能市下赤工)の山川辰蔵(埼玉県令)の長男。1875年、工部大学校(現・東京大学工学部)で電信学を学び卒業、工学士となる。1887年には工科大学校助教授に任ぜられ、1896年、官命で欧米諸国に留学し主に電気学を研究した。3年後の1899年に帰国すると東京帝国大学(現・東京大学)教授に昇進し、工学博士の学位を受けた。
1914年から1916年まで電気学会の会長をつとめ、電気学の権威として知られた。1919年に海外派遣を命じられ、再度欧米諸国を研究視察した。帰国した1923年に東京帝国大学教授を退任し、東京帝国大学名誉教授の称号を受けた。このような業績により高等官一等に叙せられ、正三位勲二等を授けられた。数え年74歳で病没、電磁気学発展に尽くした功により旭日重光章が追贈されている。
栄典
編集- 位階
- 1895年(明治28年)3月11日 - 正七位[1]
- 1906年(明治39年)11月20日 - 正五位[2]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従四位[3]
- 1923年(大正12年)4月30日 - 正三位[4]
- 勲章等
脚注
編集外部リンク
編集学職 | ||
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先代 浅野応輔 |
電気学会会長 5代:1915年 - 1917年 |
次代 大井才太郎 |