小笠原政信

江戸時代前期の大名。下総古河藩2代藩主。下総関宿藩初代藩主。信嶺系小笠原家2代、松尾小笠原氏8代。小笠原信之の長男。従五位下、左衛門佐

小笠原 政信(おがさわら まさのぶ)は、江戸時代前期の大名下総古河藩2代藩主。下総関宿藩初代藩主。信嶺系小笠原家2代。

 
小笠原 政信
時代 江戸時代前期
生誕 慶長12年(1607年
死没 寛永17年7月2日1640年8月18日
戒名 圭山瑞雲
墓所 千葉県市川市国府台總寧寺
埼玉県本庄市中央の開善寺
官位 従五位下、左衛門佐
幕府 江戸幕府
下総古河藩主→関宿藩
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原信之、母:小笠原信嶺の娘
兄弟 政信信政
正室:板倉重昌の娘
娘(織田信昌正室のち中院通茂室)、
娘(小笠原貞信正室)、娘(久世経式正室)
養子:小笠原貞信
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生涯

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慶長12年(1607年)、小笠原信之の長男として武蔵国児玉郡本庄城に生まれる。本庄金鑚神社を深く信仰していたとされる。慶長17年(1612年)に父が本庄藩から古河藩へと加増移封された事で下総国で育つ事となるが、その後も当地の金鑚神社を信仰していたため、元和年間に当社が洪水被害を受けた際には寄進し、現在地(本庄市千代田3丁目2番3号)に社殿を建立した[1]本庄宿の方も参照)。

慶長19年(1614年)、父の死去により家督を相続した。同年冬からの大坂冬の陣では、伯父・酒井家次の助けを得て出陣し、近江国佐和山城の守備を任された。翌年の大坂夏の陣でも家次の助けを得て出陣し、伏見城の守備を任じられた。

元和5年(1619年)、下総古河2万石から同関宿に移封された。寛永17年(1640年)7月2日、34歳で死去した。死後、家督は婿養子の貞信が継いだ。

その他

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  • 寛永16年(1639年)、本庄の金鑚神社にクスノキを献木したと伝えられている。現在、そのクスノキは、高さ20m、東西約30mに枝を張る大木となり、北関東でも一級の巨樹とされている[2]

系譜

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父母

正室

子女

養子

脚注

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  1. ^ この事は、千代田の金鑚神社の看板書き、および『武蔵国児玉郡誌』[要文献特定詳細情報]、『本庄歴史館』[要文献特定詳細情報]、『本庄人物事典』[要文献特定詳細情報]など、複数の書物に記述されている。
  2. ^ 『〈本庄・未来を跳ぶ〉本庄市勢要覧'94』[要ページ番号]。北関東でクスノキがこれほど大きくなるのは珍しく、県指定天然記念物となっている。