小笠原康広
戦国時代・安土桃山時代の北条氏・徳川氏家臣。
小笠原 康広(おがさわら やすひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏、徳川氏の家臣。小笠原元続の子。
時代 | 戦国時代、安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄4年(1531年) |
死没 | 慶長2年12月8日(1598年1月15日) |
改名 | 康広、播磨入道、法名:宗有(寛政重修諸家譜) |
別名 | 六郎、兵部少輔、播磨守 |
主君 | 北条氏、徳川氏 |
氏族 | 京都小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原元続 |
妻 | 正室:北条為昌息女・種徳寺殿 |
子 |
長房、女(伊東政世正室)、 女(蒔田頼久正室) |
生涯
編集享禄4年(1531年)、小笠原元続の子として誕生。北条氏綱の母方の縁戚にあたる。
北条為昌の娘で主君・北条氏康の養女である種徳寺殿[注釈 1]を正室に娶り、さらに「氏康」から一字を拝領して「康広」と名乗ることを許されるなど準一門の厚遇を受けた。
武家故実(武家の有職故実)に精通して、武者奉行や飯泉町(小田原城城下町の1つ)奉行を務める。天文年間末期より活躍し、永禄2年(1559年)の役帳では、「小笠原六郎」が相模国西郡矢畑郷にて180貫文を与えられていたことが記されている。
天正2年(1574年)には子の孫増丸(後の長房)に家督を譲った。同8年(1580年)には遠江国浜松城に使者として派遣され徳川家康に拝謁し、守家の太刀と吉平[注釈 2]の刀を下賜された[2]。更に同11年(1583年)の家康の娘・督姫の北条氏直への輿入れの際には浜松城まで督姫を迎えるための使者として派遣された[2]。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐後、氏直に従って高野山に入り出家して播磨入道と号した。氏直死後の文禄元年(1592年)、加賀爪政尚の勧めで上洛して徳川家康に仕えた。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 巻第193 淸和源氏 義光流」『寛政重脩諸家譜』 第1輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329090 。
- 下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年。ISBN 978-4-490-10696-1。
- 家永遵嗣 著、戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。ISBN 978-4-642-01348-2。
- 黒田基樹『戦国北条氏一族事典』戎光祥出版、2018年。ISBN 978-4-86403-289-6。