小槻淳方
小槻 淳方(おづき の あつかた、建仁2年〈1202年〉 - 建長4年9月16日〈1252年10月20日〉)は、鎌倉時代の廷臣。初名は惟任。右大史・小槻通時の子。官位は正五位上・左大史。
経歴
編集貞応元年(1222年)後高倉院の上北面に出仕する[1]。貞応2年(1223年)祖父の左大史・小槻国宗が没するが、惟任は若年であったことから大夫史の地位は大宮流の小槻季継が継承する。ここで、惟任は後高倉院に対して大夫史の相続を願い出るが[2]、相続は叶わなかった。さらに、寛喜2年(1230年)にも父・国宗[3]の譲りと小槻氏八代の相伝を理由に大夫史への就任を北白河院(後高倉院妃)に対して訴え出ている[2]。またこの頃、賀茂社に参詣して大夫史になるとの神託を受け、公平な沙汰を行うことを学ぶために鴨祐継に師事したとされる[4]。一方で、大夫史の重要な役割である先例勘申について、大夫史・小槻季継だけでなく、弁官局に籍がない惟任に対しても問う例が散見されている[5]。
のち惟任から敦方に改名し、寛元2年(1244年)小槻季継が没すると、左大史に任ぜられ大夫史の地位を継ぐ。その後、卒去までの10年弱に亘って大夫史を務め、寛元4年(1246年)正五位上に至るとともに、記録所奉行や修理東大寺大仏長官を兼ねたほか、備前権介を兼国した。
惟任と淳方の関係
編集貞応2年(1223年)に提出された「小槻惟任申状案」では惟任は国宗を「父」と称しており、寛喜年間(1229年~1232年)までは壬生流の長としての活動が見られる。しかし、『壬生家譜』や諸系図等の史料には惟任に該当する人物は存在しない。一方の淳方は国宗の孫にあたり、国宗の子息である通時が早世したことから子として跡を継いだとされる。この両者については、以下理由により同一人物と想定される[6]。
官歴
編集- 安貞元年(1227年) 日付不詳:見主殿頭[8]
- 時期不詳:正五位下。惟任から敦方に改名
- 寛元2年(1244年) 10月4日:左大史[12][13]。11月7日:装束使、文殿別当[14]
- 寛元3年(1245年) 正月13日:兼備前権介[12]。5月9日:見東大寺大仏長官兼主殿頭[15]
- 寛元4年(1246年) 正月18日:正五位上(春日行幸行事賞)[16]。4月19日:摂政一条実経文殿衆[16]
- 時期不詳:記録所奉行
- 建長2年(1250年) 4月2日:造閑院行事[17]
- 建長3年(1251年) 4月3日:兼修理左宮城判官[18]
- 時期不詳:院昇殿[19]
- 建長4年(1252年) 9月16日:卒去[13]
系譜
編集『系図纂要』による。
脚注
編集- ^ 『壬生家譜』
- ^ a b c 「小槻惟任申状案」『壬生家文書』23号
- ^ 惟任は国宗の子と称したが、実際は孫である(『系図纂要』)
- ^ 『古今著聞集』第一 神祇,大夫史淳方賀茂社に参籠し、神告により禰宜鴨祐頼の子祐継を師とする事。
- ^ 『明月記』寛喜2年4月6日条ほか
- ^ 遠藤.2002, p. 8.
- ^ a b 『地下家伝』
- ^ a b 『民経記』安貞元年紙背
- ^ 『壬生家譜』『小槻季継記』嘉禎元年12月18日条
- ^ 「小槻淳方書状」年未詳8月28日(『民経記』貞永元年10月記紙背)
- ^ 年未詳6月6日「小槻有家請文案」『壬生家文書』311号
- ^ a b 『平戸記』
- ^ a b 『百錬抄』
- ^ 『地下家伝』
- ^ 太政官牒『花押かがみ』2098
- ^ a b 『葉黄記』
- ^ 『岡屋関白記』
- ^ 『壬生新写古文書』「宮城造営等」
- ^ 「官務年々注進」『壬生家文書』26
参考文献
編集- 遠藤珠紀「官務家・局務家の分立と官司請負制 : 中世前期における朝廷運営の変質」『史学雑誌』第111巻第3号、史学会、2002年、442頁、doi:10.24471/shigaku.111.3_442、ISSN 0018-2478、NAID 110002551438。
関連文献
編集- 永井晋『官史補任』続群書類従完成会、1998年。ISBN 4797106581。 NCID BA35189676。全国書誌番号:98090066 。