小栗正信
小栗 正信(おぐり まさのぶ)は、江戸時代の旗本、小栗流の創始者。通称は仁右衛門。諱は信由(のぶよし)とも[1]。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正17年(1589年) |
死没 | 寛文元年6月6日(1661年7月2日) |
別名 | 仁右衛門、二右衛門(通称)、信由(諱) |
戒名 | 宗閑(法名) |
墓所 | 普門院(埼玉県さいたま市大宮区大成町) |
幕府 | 江戸幕府 小姓組番士 |
氏族 | 三河小栗氏 |
父母 | 父:小栗忠政、母:天野康景の娘 |
兄弟 | 政信、正信(信由)、信友、忠次、忠勝、忠嗣 |
妻 | 大沼靱負の娘 |
子 | 信政、信則、娘(上田勝正妻)、娘(土肥五左衛門妻)、娘(鈴木伝右衛門妻)、娘(前場清右衛門妻)、娘(大久保忠政妻)、娘(西山昌信妻) |
来歴
編集徳川家康の小姓を務めた小栗忠政の次男。柳生新陰流の柳生宗厳に入門した。
家康に小姓として仕え、御膳番を務めた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に従軍し、佐久間実勝と共に伊達政宗の陣に赴き、旗を巻くようにという仰せを伝えた。翌年の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いにおいて敵兵の首を獲っている。元和2年(1616年)、家督を長兄・政信が継いだため、分知550石を武蔵国足立郡にもらって旗本になり、江戸柳生の柳生宗矩に学んだ。また、徳川秀忠の元で小姓組番士となる。寛永10年(1633年)2月7日、上総国長柄郡で200石を加増され、750石を知行する[1]。
関ヶ原の戦いや大坂の陣に出兵した経験から組討の必要性を感じ、駿河鷲之助と和術を編み出した。小栗流は刀術を表、和術を裏としている。