小林豊 (実業家)
小林 豊(こばやし ゆたか、1951年(昭和26年)3月2日[3] - )は、日本のテレビディレクター、テレビプロデューサー、実業家。フジテレビジョン、フジ・メディア・ホールディングス取締役、テレビ静岡社長などを歴任した。
こばやし ゆたか 小林 豊 | |
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生誕 |
1951年3月2日(73歳) 日本 静岡県清水市 (現・静岡市清水区) |
出身校 | 専修大学経営学部 |
職業 | テレビディレクター、テレビプロデューサー、実業家 |
栄誉 | 旭日小綬章(2021年)[1][2] |
愛称は「ブッチャー」「ぶーちゃん(ぶぅちゃん)」。
来歴・人物
編集静岡県清水市(現在の静岡市清水区)出身[3]。中学3年生のときに父親が亡くなり、それも影響してか高校受験に失敗。1年間、中学浪人生活を送る[4]。その後静岡県立清水東高等学校を経て、専修大学経営学部卒業。高校時代は野球部に入部したが(同期に山下大輔がおり、自身は三塁手で遊撃手の山下と三遊間を組んだ[3])、新人戦に向けた練習中にノックの打球が眼を直撃し、視力が大きく落ちてしまったため退部した[4]。
大学在学中からテレビ局でアルバイトを始める。最初は大学1年の夏休みに北海道の牧場で働いていた際、TBSの取材を受けたのがきっかけで、そのままTBSのアルバイトとなり、吉永春子ディレクターなどの下で、ドキュメンタリー番組などのアシスタントディレクターとして働いた[4]。翌年秋には当時の青柳報道制作部長の紹介で東京12チャンネル(現・テレビ東京)に移り、アシスタントディレクターなる。週7本のレギュラー担当番組を抱え、12チャンネルからは正社員として入社を誘われた。ところが、入社試験を受けたところ不合格となる。そこで、後に千代田企画を立ち上げる藤巻正義の紹介で、フジテレビの直系制作会社であるフジポニーに入社した[4]。この時代のフジテレビは、合理化によって制作部門を分社化しており、フジポニーもその一つだった。
フジテレビに転籍
編集1980年にフジテレビが社内に制作部門を復活させることとなり、フジポニーを含む当時の直系制作会社を吸収することになったため、フジテレビに転籍した[5]。
1980年代は『オレたちひょうきん族』や『森田一義アワー 笑っていいとも!』のディレクターを担当。『笑っていいとも!』の放送開始から、担当を外れる1987年10月2日までは『テレフォンディレクター ブッチャー小林』名義で、『テレフォンショッキング』のアシスタントとして出演した。愛称の「ブッチャー」は、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーに由来し、名付け親は島田紳助である[3]。出演する時間が迫ってくると緊張し、トイレで吐くのが常で、目は充血。司会のタモリから「(昨夜は遅くまで酒を)飲んでた」などとちゃかされる要因になった。「それほどテレビに映るのが嫌だったということですよ」と小林は明かす[1]。1983年の『テレフォンショッキング』にプロレスラーの長州力が出演したときには、「彼と僕は大学の同級生なんです」と話があり、小林も「そうなんです。長州さんはレスリングばかりやってて、僕はバイト三昧でした」と振り返っていた。特撮テレビドラマ『TVオバケてれもんじゃ』(1985年)にゲスト出演の頃から「ぶーちゃん小林」に呼称が変更されている。
1992年、制作から営業へ異動。当初は「営業で人脈を作ったら独立して制作会社をやろう」という腹積もりだったが[5]、気がついたら「辞めるはずが10年近くも続けてしまい」とのことで、2001年には営業局長に就任[6]。営業局長時代には『お台場明石城』に奉行の1人として出演した。
2005年6月、執行役員に昇進し、スポーツ局長に就任したが、異動直後の7月に起きたジャニーズ事務所所属の人気グループ「NEWS」の当時18歳のメンバーとフジテレビ女性アナウンサーとの飲酒事件で減俸処分を受けた[7]。
2007年6月、フジテレビ(現・フジ・メディア・ホールディングス)取締役に選任され、2008年10月に分社化・新規設立されたフジテレビジョンの取締役を兼務する。
テレビ静岡社長
編集2009年6月、フジ・メディア・ホールディング及びフジテレビの取締役を退任し[8]、同月末、郷里のテレビ静岡社長に就任した。この年の9月、癌を再発した妻を亡くしている[6]。トップ在任時には、負担が大きいとして社内で反対の意見が過半を占める中、情報ワイド番組『情報ワイド てっぺん静岡』をスタートさせ、新社屋の建設にも取り組んだ[6]。
2011年7月23日・24日放送の『FNS27時間テレビ』には、テレビ静岡チームの応援団として24年ぶりに[要出典]メディア出演。翌年7月21日・22日放送の『FNS27時間テレビ』にも引き続き応援団として出演し、中継を介してタモリと再会した。
2019年6月、フジテレビで同僚だった若松誠に社長を譲り、相談役に退いた。
担当番組
編集- オレたちひょうきん族(前期、ディレクター)
- 笑ってる場合ですよ!(ディレクター)
- 笑っていいとも!(ディレクター、1982年10月4日 - 1987年10月2日)
- ライオンのいただきます(ディレクター)
- 夜はタマたマ男だけ!!(ディレクター)
- 所さんのただものではない!(プロデューサー兼ディレクター)
出演番組
編集- 笑っていいとも! テレフォンショッキング(1982年10月4日 - 1987年10月2日)
- TVオバケてれもんじゃ(1985年)
脚注
編集- ^ a b “叙勲・旭日小綬章、元テレビ静岡社長・小林豊さん(70) テレビ人生50年「現場重視」貫く”. 産経新聞. (2021年4月29日) 2023年11月9日閲覧。
- ^ 『官報』号外第99号、令和3年4月30日
- ^ a b c d 河北新報 1983年10月26日 20面「登場」コーナー
- ^ a b c d “静岡人語り テレビ静岡社長・小林豊さん(上)テレビ出演きっかけにアルバイト 短期間のつもりが「一生の仕事」に”. 産経新聞. (2014年9月26日) 2023年11月9日閲覧。
- ^ a b “静岡人語り テレビ静岡社長・小林豊さん(中)萩本さんからテレビの基本を学び タモリさんとテレビで遊び倒した”. 産経新聞. (2014年10月3日) 2023年11月9日閲覧。
- ^ a b c “静岡人語り テレビ静岡社長・小林豊さん(下)嫌だったブッチャー営業に一役 今は次代のため、制作ノウハウ蓄積”. 産経新聞. (2014年10月10日) 2023年11月9日閲覧。
- ^ フジテレビが10人を処分 NEWSメンバー飲酒問題(共同通信)[リンク切れ] 2013年10月21日閲覧。
- ^ 2009年5月14日 平成21年3月期決算短信 (PDF) (2011年9月19日時点のアーカイブ)