小林忠生
日本のサッカー選手
小林 忠生(こばやし ただお、旧姓:早川、1930年7月7日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。父親は日本海軍中将の早川幹夫[2]、実兄の早川純生もサッカー選手で、東京大学、日本鋼管で活躍した。
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名前 | ||||||
カタカナ | コバヤシ タダオ | |||||
ラテン文字 | KOBAYASHI Tadao | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1930年7月7日(94歳)[1] | |||||
出身地 | 神奈川県 | |||||
身長 | 173cm[1] | |||||
体重 | 63㎏[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
湘南中学校 | ||||||
1950-1953 | 慶應義塾大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
慶應BRB | ||||||
代表歴 | ||||||
1956 | 日本 | 3 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
慶應義塾大学 | ||||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集神奈川県立湘南中学校時代の1948年に第3回国民体育大会で準優勝。卒業後は慶應義塾大学経済学部に進学しソッカー部に所属。在学中の1953年には鈴木徳衛と共に日本学生選抜に選出され、1953年国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場した。1954年3月に大学を卒業[3]。卒業後は東京海上火災保険に入社した(勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明)。
卒業後も慶應BRB(現役、OBで構成された混成チーム)の一員として1954年、1956年の全日本サッカー選手権大会優勝に貢献。また、1956年6月3日のメルボルン五輪予選、対韓国戦で日本代表デビュー[1]。同年11月のメルボルン五輪本大会にも出場した。
引退後は母校の慶應義塾大学で監督を務めた。
所属クラブ
編集- 神奈川県立湘南中学校
- 1950年 - 1953年 慶應義塾大学
- 慶應BRB
代表歴
編集出場大会
編集試合数
編集- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1956)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1956 | 3 | 0 | 3 | 1 | 6 | 1 |
通算 | 3 | 0 | 3 | 1 | 6 | 1 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1956年06月03日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | 韓国 | ○2-0 | 竹腰重丸 | オリンピック予選 |
2. | 1956年06月10日 | 東京都 | 後楽園競輪場 | 韓国 | ●0-2(延長) | オリンピック予選 | |
3. | 1956年11月27日 | メルボルン | オーストラリア | ●0-2 | オリンピック |
脚注
編集- ^ a b c d “メルボルンオリンピック予選”. 日本サッカー協会. 2018年5月1日閲覧。
- ^ 賀川浩の片言隻句
- ^ “このバトンを脈々と(慶應・神戸サッカー定期戦)”. 慶應義塾体育会ソッカー部 (2016年8月21日). 2018年5月1日閲覧。[リンク切れ]
外部リンク
編集外部リンク
編集- 小林忠生 - Olympedia
- 小林忠生 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ
- 小林忠生 - National-Football-Teams.com
- 小林忠生 - WorldFootball.net
- 小林忠生 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 小林忠生 - TheFinalBall.com
- 慶應義塾とサッカー