小松喜平治
小松 喜平治(こまつ きへいじ、1849年11月16日(嘉永2年10月2日[1])- 1905年(明治38年)11月16日[1][2])は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。
経歴
編集山城国葛野郡上嵯峨村[1](京都府[2]葛野郡嵯峨村[3]字上嵯峨[1]、嵯峨町を経て現京都市[3]右京区)で、嵯峨郷士、庄屋・小松吉郎兵衛、リュウの二男として生まれる[1]。天龍寺清隠和尚に師事し漢学を修め[1][2][3]、水戸浪士から撃剣を学んだ[1]。兄・牛之助の早世により家督を相続した[1]。
鳥羽・伏見の戦いが起こると、同志を集めて京都東山東漸寺に駐屯し皇居守護の任に当たる[1]。1868年(明治元年11月)二条城旧御親兵隊に編入され、1869年(明治2年3月)まで在籍[1]。その後国事に奔走し、1871年(明治4年2月)国事犯の嫌疑で京都府に拘留され1872年(明治4年12月)に禁獄40日の処分を受け、1872年11月(明治5年10月)に赦免された[1]。
その後、自家製茶場を設けて村民に茶業を奨励し、農事改良、道路整備に尽力し、有志と上嵯峨観音寺谷に用水路を築造した[1]。また、嵐山の植林にも尽力した[1]。
1873年(明治6年)9月、上嵯峨村戸長に就任[1]。以後、葛野郡第三区長兼学区取締、第三戸長、兼葛野郡社倉取締、葛野郡第六組戸長などを歴任[1]。さらに、上嵯峨・天竜寺両村連合村会議長、葛野郡第六番学区学務委員、上嵯峨村会議員などを務めた[1]。1889年(明治22年)4月、町村制の施行により嵯峨村会議員となり終生在任し[1][2]、嵯峨村下嵯峨村組合会議員、上嵯峨天竜寺区会議員、嵯峨村高等小学校学務委員などにも在任[1]。1890年(明治23年)2月、京都府会議員に選出され[1]、1894年(明治27年)2月に退任し[1]、この間、常置委員も務めた[1][2][3]。
1898年(明治31年)8月、第6回衆議院議員総選挙(京都府第3区、 憲政本党)で当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任[2][3]。進歩党に所属し同党京都支部常議員となり、1898年(明治31年)憲政本党京都支部の設立に尽力した[1]。
1905年11月、脳溢血により自宅で死去した[1]。
国政選挙歴
編集- 第2回衆議院議員総選挙(京都府第3区、1892年2月、無所属)落選[1][5]
- 第3回衆議院議員総選挙(京都府第3区、1894年3月、無所属)次点落選[1][5]
- 第4回衆議院議員総選挙(京都府第3区、1894年9月、無所属)次点落選[1][4]
- 第6回衆議院議員総選挙(京都府第3区、1898年8月、憲政本党)当選[4]
親族
編集- 長男 小松美一郎(京都府会議員)[1]
脚注
編集参考文献
編集- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。