小川宗義
小川 宗義[2](おがわ むねよし、生没年不詳[3])は、鎌倉時代後期の武将で、常陸佐竹氏6代当主佐竹義胤の次男[4]。出家後は義綱。母は岩崎氏女。佐竹小川氏の祖。陸奥国磐城郡小川(現、福島県いわき市小川)、及び同頃藤(現、茨城県久慈郡大子町頃藤)を領有した。
時代 | 鎌倉時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明(1265頃カ) |
死没 | 不明 |
改名 | 義綱(出家後) |
墓所 | 福島県いわき市の真言律宗長福寺 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 佐竹小川氏 |
父母 | 父:佐竹義胤、母:岩崎氏女 |
兄弟 | 佐竹行義(1263年 - )・小川宗義(小河義綱)・豊間義煕(彦四郎勝義)・稲木義信(義貞)・高部景義 |
妻 | 岩崎氏女。「伊与殿」か[1] |
略歴
編集1265年頃[5]、佐竹義胤の次男(あるいは四男)に生まれる[6]。
建治年間(1275-1278)に、陸奥国頃藤城(茨城県久慈郡大子町頃藤)の城代に任じられる。
その後、母の岩崎氏の縁で、岩崎氏の所領である、陸奥国磐城郡北部の小川に進出。小川領を支配し、中柴外城を築き、小川三郎、或いは五郎と名乗る[7]。
正應2年(1289年)、小川二俣神社を再興させる[8]。なお、正應2年は父の佐竹義胤の没年という説がある[9]。
元亨2年(1322年)小川長福寺を鎌倉真言律宗極楽寺の末寺として子院地蔵院住持の慈雲を招いて創建したほか[10][11]、諏訪神社を領内に勧請した[12]。なお、同名の寺院が頃藤にも存在する。
2年後の正中元年(1324年)7月には、同寺の地蔵菩薩坐像を院派仏師の院誉に依頼して造立[13][14]、翌2年(1325年)には同寺に塩田村、東山を寄進した。
逸話
編集鎌倉大番役勤務時に切腹に値する罪を犯すが、授戒に来た真言律宗・鎌倉極楽寺長老順忍に「諏訪大社の御戸の役を出来ないのが気がかり」と答えたところ、憐れに思った順忍が取りなし、執権北条高時より許されたことがある。これをきっかけとして、小川長福寺と小川諏訪神社をそれぞれ創建した[15][11][12]。
家族
編集佐竹系小川氏
編集子孫は後に3家に別れる。すなわち姻戚の岩崎氏分家北郷氏の所領を継いだ刑部大輔家(惣領、北郷殿)、いわき小川を領有し、嘉吉の内紛で岩城氏に所領を奪われ、大子町頃藤に戻った大和守家、嘉吉の内紛の結果により、岩城氏より小川氏に養子に入ったと推測される岩城小川氏(~守家)の3家である。このうち、刑部大輔家と岩城小川氏は歴代に岩城氏由来の「隆」の字が、頃藤小川氏は歴代に佐竹氏由来の「義」の字が付く。岩城小川氏からは室町時代に分家として三坂氏が出ている。
家臣
編集参考文献
編集- 書籍
- 論文
脚注
編集- ^ 国指定データベース「木造地蔵菩薩坐像院誉作」の詳細解説より
- ^ 小川三郎大和守義継はこの人ではなく、この人の数代後の子孫
- ^ 兄・佐竹彦次郎行義の生年は1263年なので、少なくともそれ以降が生年
- ^ 「古本佐竹系図」より。四男説あり
- ^ 兄の佐竹行義1263年生から推定
- ^ 庶家、庶子説がある
- ^ なお、同母弟の彦四郎も同じく磐城郡内の豊間領に進出している。
- ^ たんぽぽろぐ>二俣神社(いわき市小川町下小川字梅ノ作)の由緒書きより
- ^ 「佐竹系譜」(常陸太田市史料)より
- ^ 「小川山宝幢院長福寺縁起」より
- ^ a b 松尾剛次「出羽・陸奥両国における叡尊教団の展開」(『山形大学紀要(人文科学)』22-2号、2023年)
- ^ a b 『新しい いわきの歴史』(いわき地域学會、1991年、p103)
- ^ いわきデジタルミュージアム>木造地蔵菩薩坐像
- ^ 国指定等文化財データベース「木造地蔵菩薩坐像院誉作」
- ^ 「小川山宝幢院長福寺縁起」より
- ^ 庶子説の場合は、同母兄ではなく、行義の母が岩崎氏女ではなくなる
- ^ 国指定データベース「木造地蔵菩薩坐像院誉作」の詳細解説より