小峰墓地
小峰墓地(おみねぼち)は熊本県熊本市中央区黒髪にある墓地公園である。小峯墓地(こみねぼち)とした表現もみられる[1]。 熊本城の鬼門の丑寅にあたり、草深いところであった。その一角に陸軍墓地があり、西南戦争から日清戦争、日露戦争、第二次大戦までの13,083柱の戦没者の霊域であったが、1954年に熊本市が整理して、墓地公園とした[2]。
忠霊塔その他
編集墓地公園にした時に、ここに眠る英霊を弔うために画家海老原喜之助がパリのサロン・ド・メエに出品した油絵「殉教者」を自ら彫刻にして、忠霊塔にはめこんだ。幅23メートル、奥行11メートルの土台に高さ7メートルの忠霊塔が1955年3月に完成した。忠霊塔の文字は寒巌義尹の「大渡橋由来記」からとった。ほかに、満州事変戦没者合祀碑、支那事変大東亜戦争忠魂碑、交通事故者慰霊の塔、五高生碑、海南之変忠霊之碑、原爆犠牲者を弔う碑(原爆50年後の1995年建立)などがある。
熊本市営小峰墓地の基本データ
編集- 霊園区分 - 公営
- 総面積
- 宗旨・宗教 - 宗教不問
- 総区画数
- 管轄の自治体 - 熊本県熊本市 管理事務所(電話略)健康福祉局 健康政策部 健康福祉政策課
- 設備・施設
著名人の墓地
編集- 秋山玉山:藩校時習館初代教授で、詩文で有名であり、細川重賢の信任あつかった。
- 有馬源内:時習館で学び、国事に奔走。明治7年の台湾の役、その後西南戦争に参加。3年の刑をうけ、のち実業家となる。熊本県議会の初代議長。北海道で振殖事業を起こす。
- 宮部鼎蔵:(みやべていぞう)尊王攘夷派の武士。池田屋で自刃。墓は京都にもある。
- 加屋霽堅:(かやはるかた)太田黒伴雄と共に神風連の乱を起こした。墓は大江町是法の共同墓地にあったが、戦後他の多くの神風連関係者と共に小峰墓地に移された。但し太田黒伴雄の墓の記載はない。
- 平井数馬
- 行徳健男
- 佐々弘雄:九州大学法文学部教授。1946年熊本日日新聞社社長。
- 佐々國雄
- 井芹経平:現・熊本県立済々黌高等学校を育てた。
- 野田寛:現・熊本県立熊本高等学校初代校長。
- 谷口長雄:熊本県医学校を設立した。
- 谷口弥三郎:熊本県市医師会長。参議院議員。「優生保護法」(現・母体保護法)を成立させた。
- 大原清之助:細菌学者。熊本県医師会長。
- 松崎吉次郎:熊本城天守閣再建にあたって、5000万円寄付した。また平御櫓の建設費200万円を寄贈している。
- 伊豆富人:熊本日日新聞社社長。熊本放送を設立した。
- 海老原喜之助:画家
- 星子敏雄:熊本市長
- 阿部次郎:学者の阿部次郎とは別人。熊本市議2期、議長2期、市教育委員長、俳誌「阿蘇」の編集発行人。熊本信用金庫理事長。
- 山崎正董:熊本医科大学学長
-
秋山玉山墓
-
宮部鼎蔵墓
-
加屋霽堅墓
-
小泉八雲が愛した鼻かけ地蔵
脚注
編集- ^ 熊本市営 小峯墓地 いいお墓
- ^ 高田[1998:1105]
参考文献
編集- 高田泰史「小峰墓地」『平成肥後国誌 上』平成肥後国誌刊行会、1998年、pp1105 - 1127。
参考
編集外部リンク
編集座標: 北緯32度49分9.2秒 東経130度43分43.4秒 / 北緯32.819222度 東経130.728722度