『日本書紀』にこの冠位で見えるのは、大化3年(647年)に新羅から帰国した中臣押熊である[3]。しかし冠位二十六階の制定以前のことで、小山中はありえない。ともに新羅から帰った高向黒麻呂(高向玄理)は小徳と当時の冠位で書かれており、錯綜がある。押熊の冠位は後のものであろう。
- ^ 『日本書紀』巻第27、天智天皇3年2月丁亥(9日)条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の262-263頁。
- ^ 『日本書紀』巻第29、天武天皇14年正月丁卯(21日)条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の444-445頁。
- ^ 『日本書紀』巻第25、大化3年是歳条。新編日本古典文学全集版『日本書紀』3の168-169頁。