宮川久一郎 (2代)
大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家
2代 宮川 久一郎(みやがわ[1] / みやかわ[2] きゅういちろう、1871年12月14日(明治4年11月3日[3])[注 1] - 1949年(昭和24年)8月5日[1])は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。旧姓・西谷、前名は徳助[2][4][5]。
経歴
編集青森県津軽郡、のちの南津軽郡尾上村(尾上町を経て現平川市)で西谷嘉兵衛の四男として生まれる[2][5]。1890年(明治23年)6月、弘前市松森町の先代久一郎の婿養子となり、養父の死去に伴い1917年(大正6年)家督を相続し2代久一郎を襲名[2][4][5]。養家は呉服商および酒造業を営む[4]。
養家の呉服部を担当し、1915年(大正4年)9月、土手町角に店舗を新築して松森町から移転した[2][5]。1918年(大正7年)以降、弘前商業銀行、弘前宮川銀行各頭取、弘前農具、第五十九銀行各取締役、弘前商業会議所議員、弘前市会議員などを歴任した[1]。
1921年(大正10年)青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年12月21日[6]から翌年10月7日[7]まで在任した[1]。
1923年(大正12年)「角は」本店と、蓬莱橋付近の義弟・宮川忠助経営の「角は」支店を合併して、一番町坂下に高層の店舗を新築して青森県初の百貨店「カクハ」(かくは宮川)[注 2]を開店した[2][5]。その経営は専務の義弟・忠助に委ねた[2][5]。1933年(昭和8年)一家で東京に移り、百貨店の社長を義弟・忠助に譲った[5]。
親族
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年 。
- 『青森県百科事典』東奥日報社、1981年。
- 原子昭三『弘前市政今昔物語』青森県教育振興会、1989年。
- 東奥日報社 編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。ISBN 4885610656。