宮地 志行(みやち しこう)は戦前日本洋画家、挿絵画家。東京府渋谷区千駄ヶ谷岐阜県日吉村半原で活動し、40代で早世した。本名は景樹(かげき)。

宮地 志行

SHIKOH. M.[2]
1918年(大正7年)撮影
生誕 宮地景樹
1891年明治24年)7月26日
岐阜県土岐郡日吉村半原
死没 1936年昭和11年)10月12日
東京府東京市四谷区慶応病院
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
教育 岡精一高間惣七中村不折
著名な実績 洋画、童画
流派 アカデミック美術
配偶者 加知光枝
選出 日本水彩画会太平洋画会
影響を受けた
芸術家
ジョルジュ・スーラポール・シニャックポール・セザンヌ[1]

経歴

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1911年(明治44年)大日本水彩画会研究所 X印が宮地景樹
 
1924年(大正13年)岡精一アトリエにて

1891年(明治24年)7月26日岐阜県土岐郡日吉村半原に宮地文一の長男として生まれた[3]。5,6歳頃から絵を始めた[4]。1901年(1901年)半原尋常小学校に入学し、1906年(明治39年)岐阜県立東濃中学校に進学した[3]

1909年(明治42年)卒業後[4]、上京して千駄ヶ谷町の叔父美一宅に住み[5]フランスから帰国直後の岡精一に師事し、後期印象派の影響を受けつつアカデミック美術を習得した[1]。大日本水彩画会研究所で研究し、1913年(大正2年)日本水彩画会創立に参加した[3]。1922年(大正11年)9月太平洋画会准会員、1930年(昭和5年)3月30日展覧会会友に推薦された[3]

昭和初期から高間惣七中村不折に師事し[4]、NHKラジオ雑誌、時事新報社『少年』『少女』、主婦之友社、興文社[2]、『国定教科書』等の挿絵を手がかけた[4]。1931年(昭和6年)母校日吉第一尋常高等小学校を設計したほか、土雛・半原操り人形浄瑠璃の道具も制作した[1]。1932年(昭和7年)頃[6]故郷半原にアトリエを建設し、東京との間を行き来した[4]

1935年(昭和10年)3月悪性関節炎となり[4]、夏手術するも効果なく、1936年(昭和11年)10月12日[3]四谷区慶応病院で死去した[2]。病気は結核ともいう[3]。22日には父文一も死去し、葬儀は合同で行われた[3]

1978年(昭和53年)アトリエは老朽化のため取り壊され[6]、倉庫となった[7]

絵画

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挿絵

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  • 安倍季雄『幼年冒険小説集』国民図書、1929年(昭和4年)
  • 安倍季雄『少年世界偉人読本』大阪宝文館、1930年(昭和5年)
  • 沖野岩三郎『やんばうさん』主婦之友社、1934年(昭和9年)
  • 水谷準「冒険童話しろくろ大使」『主婦之友』1934年(昭和9年)6月号
  • 須藤次雄『優良コドモヱホン』須藤雄鳳堂、1935年(昭和10年)

交友

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家族

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1907年(明治40年)可児郡宝積寺にて 右から宮地秋子、景樹、けい、文一、ふで
  • 父:宮地文一慶応元年(1865年)10月25日 - 1936年(昭和11年)10月22日) – 日吉尋常高等小学校長、日吉村長[5]
  • 母:けい(1873年(明治6年)5月7日 - 1961年(昭和36年)4月14日) - 可児郡今渡地主田口家娘[5]
    • 妹:筆子(1893年(明治26年)生)[8] - 熊崎健一郎弟康人妻[3]
    • 妹:秋子(1897年(明治30年)生)[8]
  • 妻:光枝(1899年(明治32年)11月15日 – 1980年(昭和55年)5月20日) - 加知幸平娘。姓名判断に従い君枝と称した[6]。1918年(大正7年)3月結婚[8]
  • 長女:伸枝(1919年(大正8年)2月15日 - 1978年(昭和53年)5月30日)[1] - 瑞浪土岐町歯科医市川義雄妻[4]
  • 長男:完自(1923年(大正12年)1月6日 - 2017年(平成29年)11月19日)[1]
    • 孫:完行(1950年(昭和25年)生) – 山形村在住[7]

脚注

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参考文献

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外部リンク

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