宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日慶応元年5月15日〉 - 1946年昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者衛生学者九州帝国大学教授。

宮入慶之助
生誕 慶応元年5月15日1865年6月8日
日本の旗 日本信濃国更級郡西寺尾村
死没 (1946-04-06) 1946年4月6日(80歳没)
国籍 日本の旗 日本
研究分野 寄生虫学
出身校 東京帝国大学
主な業績 住血吸虫症の感染路の特定
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

経歴

編集
 
ミヤイリガイ

信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。

帰国後1904年京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。

1913年鈴木稔とともに日本住血吸虫(地方病)の中間宿主である巻き貝を発見。この貝は宮入の功績を記念してミヤイリガイという。それまで淡水に住む巻き貝が寄生虫の中間宿主であるという報告は世界中でなされていなかった。この世界初の発見がきっかけとなり、日本国外でもビルハルツ住血吸虫マンソン住血吸虫の感染経路および中間宿主の特定が進んだ[1]イギリスのブラックロック教授はこの業績を評価し、ノーベル賞候補に推薦するが、実現しなかった[2]

1923年春、ルドルフ・トイスラーの斡旋により、三浦謹之助長與又郎藤浪鑑秦佐八郎高木兼寛らと3か月に亘ってアメリカの医療機関を視察し帰国[3]。同年5月、帝国学士院会員となる[4]1925年退官、九州帝国大学名誉教授となり、1928年、正三位勲二等旭日重光章を受勲する[5]。墓所は多磨霊園(7-2-19-1)

栄典

編集

エピソード

編集

著作

編集

単著

編集
  • 『生理学講義』 全4冊、半田屋医籍、1895年-1897年。 NCID BA69692153全国書誌番号:40056550 
  • 『新篇養生訓』明治講医会、1906年12月。 NCID BA54924732全国書誌番号:40058884 
  • 『寄生原虫研究之栞』三共、1909年10月。 NCID BA54313036全国書誌番号:40056298 
  • 『衛生学』 全3巻、南山堂書店、1913年5月-1917年2月。 NCID BA3101385X全国書誌番号:43006255 
  • 『寄生虫病に就いて』山口県庁、1921年7月。全国書誌番号:43005615 
  • 『寄生虫病及地方病予防』内務省衛生局、1921年2月。 NCID BB00551515全国書誌番号:43053703 
  • 『宮入衛生問答』南山堂書店、1922年11月。 NCID BA54521736全国書誌番号:43006435 
  • 『食べ方問題』南山堂書店、1923年12月。 NCID BN09535534全国書誌番号:43037612 
  • 『保健衛生の調査に就て』福岡県警察部、1924年6月。全国書誌番号:42011786 
  • 『続 食べ方問題』南山堂書店、1924年12月。 NCID BN09535534全国書誌番号:43037613 
  • 『小学児童生理衛生の栞』黎明社、1926年6月。全国書誌番号:42012371 
  • 『栄養上必須の最新知識(ドイツの生活改善運動)』飯田豊三、1941年4月。 NCID BA56844667全国書誌番号:44045512 

翻訳

編集

記念誌

編集

ギャラリー

編集

脚注

編集
  1. ^ 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 2005:19-21.
  2. ^ 宮入慶之助先生 - 九州大学医学部「寄生虫学の展開と医の文化」
  3. ^ 藤本大士『医学とキリスト教 日本におけるアメリカ・プロテスタントの医療宣教』法政大学出版局、2021年8月。ISBN 978-4-588-32606-6  p.224
  4. ^ 『官報』第3226号、大正12年5月4日。
  5. ^ 宮入慶之助の略歴 - 宮入慶之助記念館
  6. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  7. ^ 『官報』第8257号、「叙任及辞令」1910年12月28日。
  8. ^ 『官報』号外、「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  9. ^ JPL Small-Body Database Browser on 14902 Miyairi -NASA

関連項目

編集

外部リンク

編集