室賀正勝
日本の江戸時代前期~中期の武士。館林藩附家老室賀正俊長男で、旗本室賀氏3代当主(6000石。武蔵・上野国→美濃・遠江国に替地となる)
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 承応元年(1652年) |
死没 | 享保9年11月5日(1724年12月20日) |
別名 | 甚四郎(通称)、英尚(法名) |
幕府 | 江戸幕府 旗本寄合席 |
氏族 | 室賀氏 |
父母 | 父:室賀正俊、母:上田重秀の娘 |
妻 |
正室:小栗政俊(または小栗正直[1])の養女(宮崎重景の娘) 継室:松平正信の養女(松平重正の娘)[2] |
子 | 室賀正房、室賀正普、室賀正便、本多俊方、養女(室賀正房娘、酒井友常室) |
寛文5年(1665年)12月26日、将軍徳川家綱に拝謁し、神田御殿にて館林藩主徳川綱吉に出仕し小姓となり、父から上野国・武蔵国のうち6000石を相続する。寛文8年(1668年)綱吉に従い江戸城西の丸に候し、綱吉が将軍に就任すると旗本に帰する。貞享元年(1684年)10月10日寄合に列する。のちに采地が美濃国各務郡・遠江国山名郡・城東郡・佐野郡に替地となる。享保9年(1724年)死去。享年73。法名は英尚。
妻は小栗政俊(または小栗正直)の養女(宮崎重景の娘)、大河内系松平正信の養女(松平重正の娘)。家督は次男の正普が相続したが、三男の正便に各務郡のうち500石が分知された。
脚注
編集参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜 巻第二百三十八」