定範
1165-1225, 平安時代末期~鎌倉時代前期の僧
定範(じょうはん、永万元年(1165年)- 元仁2年2月25日(1225年4月4日))は、平安時代末期・鎌倉時代前期の真言宗・三論宗兼学の僧。藤原成範の子で信西の孫、成賢の実弟。通称は民部卿法印。
経歴
編集初め醍醐寺にいた叔父の勝賢に真言宗を、後に東大寺にいた叔父の明遍(勝賢の兄弟)に三論宗を学んだ。建久元年6月7日(1190年7月11日)、東大寺東南院の院主であった勝賢の譲状を受けて院主となった[注釈 1]。建保元年(1213年)に東大寺別当に就任し、承久3年(1221年)3月に辞任、同年7月には醍醐寺座主に就任し、没するまでその地位にあった。また、この年には法印・権大僧都に叙せられている。なお、東南院院主の地位は没するまで保持しており、没後に生前の定範と亡くなった後高倉院との間で仁和寺の道深法親王(後高倉院の子)に東南院院主を譲る約束をした事が発覚して東大寺の反感を買っている[2][注釈 2]が、定範の死去から8か月後の(元仁2年改め)嘉禄元年11月5日(1225年12月6日)には東大寺に対して道深への東南院譲渡を命じる官宣旨が出されている[4]が、これに反発した東大寺と興福寺の衆徒による強訴に発展する。翌年になって道深は東南院の院主を辞退するが、この問題は定範個人の問題というよりは承久の乱後に行われた後鳥羽院系の皇族に対する処分(その欠を後高倉院系の皇族が占める措置)に連動した政治的な流れの一環であった[3]。
脚注
編集注釈
編集- ^ 当時の東大寺は平家による南都焼討後の重源らによる再興事業の最中であり、文治5年7月15日(1189年8月28日)の夜に突然実施された勝賢の東南院院主就任もその側面支援を意図した後白河法皇の人事介入によると言われている。だが、既に真言宗の有力寺院である醍醐寺座主であった勝賢の就任は三論宗を奉じる東南院の僧侶たちの反抗を招き、その収拾案として東大寺で三論宗を学んでいた甥の定範が26歳の若さで院主に抜擢された[1]。
- ^ 元々、道深は高倉上皇の孫にあたる傍流皇族として東南院に入り、定範から東南院の後継者に指名されていた。ところが、承久の乱の結果、道深の弟である茂仁王が後堀河天皇として即位し、父の守貞親王が治天の君として院政を行い(後高倉院)、兄である道深も法親王に叙されて仁和寺門跡になることが決まった。ところが勝賢の時と同様、真言宗の有力寺院である仁和寺門跡に内定した道深の就任は三論宗を奉じる東南院の僧侶たちの反抗を招き、その収拾案として道深に代わる別の後継者を求めることになっていた[3]。
出典
編集参考文献
編集- 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年、350 - 356頁。ISBN 4-305-70296-7。
- 市古貞次 編『国書人名辞典 2』岩波書店、1996年