安東九華
政治家
安東 九華(あんどう きゅうか、1825年5月12日(文政8年3月25日[1][2])- 1904年(明治37年)1月8日[1][2][3])は、明治期の公吏、政治家。衆議院議員。名・宗明、字・子成、通称・貞五郎[1]。九華は号であったが後に実名とした[1][4]。
経歴
編集豊後国国東郡佐野村(大分県西国東郡河内村、高田町を経て現豊後高田市)で、旧家の安東家に生まれる[1][4][5]。中津の藩儒・野本白巌、日出の帆足万里に漢学を学んだ[1][4][5]。父の死去により帰郷して里正を継いだ[1][5]。
1875年(明治8年)第一大区二小区戸長に就任し、次いで区長となる[1][4][5]。その後、三潴県庁、福岡県庁、大分県庁に出仕し、1882年(明治15年)9月、西国東郡長に就任した[1][2][3][5]。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では、元田肇の豊州会から大分県第5区に出馬して次点となったが、第1区と同区で当選した元田が第5区を辞退したため繰上当選となった[4]。その後、第2回総選挙では第5区[4]、第3回総選挙では第1区でそれぞれ当選し[4]、衆議院議員を連続3期務めた[3]。この間、大成会、国民協会に所属した[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 西国東郡編『西国東郡誌』西国東郡、1923年。
- 大分放送大分百科事典刊行本部編『大分百科事典』大分放送、1980年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。