安斎桜磈子
宮城県登米市登米町出身の俳人
安斎 桜磈子(あんざい おうかいし、1886年(明治19年)2月7日 - 1953年(昭和28年)12月12日)は、宮城県登米市登米町出身の俳人。本名は千里(ちさと)である[1][2][3]。
生涯
編集1886年(明治19年)2月7日に御機師の家柄に生まれ、高等小学校を卒業した後に家業を継いだ[4]。
安斎と同じく宮城県登米町出身の俳人菅原師竹に師事し、17歳頃より俳句を作り始める[1]。
1904年(明治37年)頃に従来の五七五調の形にとらわれない新しい新傾向俳句に惹かれる。その後、俳人、随筆家の河東碧梧桐が選者である新聞『日本』の俳句欄に投句し[5]、新傾向派の俳人として注目された[6]。
菅原と共に新傾向俳句を作り、一時期は新傾向俳句の重鎮として師竹・桜磈子時代と呼ばれ[4]、東北の俳壇で称された[7]。
1906年(明治39年)に河東選の句集『続春夏秋冬』や1909年(明治42年)の河東選の句集『日本俳句鈔』に多数の安斎の俳句が選ばれ[1]、『日本俳句鈔』では最高入選を果たした[8]。
1911年(明治44年)に俳人荻原井泉水が主宰の新傾向俳句機関誌『層雲』の創刊に参加。また、1915年(大正4年)に河東が主宰した自由律俳句雑誌『海紅(かいこう)』の同人となり、総編集責任者である俳人中塚一碧楼を補佐した[2]。
『層雲』や『海紅』の創刊後の作風は自由律俳句に転じた。
1915年(大正4年)に句集『閭門の草』を著す。また他に、俳論の随筆集『山に祈る』がある。
1953年(昭和28年)12月12日に67歳で没した。
俳句
編集安斎の作風は風土との結びつきや悲しみを讃えている俳句が多い。
代表句
編集- 晩学静か也杉は花粉を飛ばす
- 大手前通りにある句碑に書かれてある俳句。
その他の句
編集- あけぼの音なし梅雨じめる堤も橋も
- 岩木初雪聞く夜寒帰心あはたゞし
- 会後泊る二人あり銀河濃き夜なる
などがある。
脚注・参考文献
編集脚注
編集- ^ a b c 万有百科大事典 1973, p. 32.
- ^ a b グランド現代百科事典 1983, p. 139.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 68頁。
- ^ a b 安斎桜磈子 - 美術人名辞典、2013年7月27日閲覧。
- ^ 『日本』の俳句欄の選者は元々は河東碧梧桐ではなく、正岡子規であったが1902年(明治35年)に没した後は河東が継いだ。
- ^ 安斎桜磈子とは - コトバンク、2013年7月27日閲覧。
- ^ 菅原師竹とは - コトバンク、2013年7月27日閲覧。
- ^ 安斎桜子 句碑、2013年7月27日閲覧。
- ^ 登米市登米町の句碑・歌碑、2013年7月27日閲覧。
参考文献
編集外部リンク
編集- 荻原井泉水と弘前の俳人たち(松木星陵) - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- 続春夏秋冬春之部(情報) - 国文学研究資料館近代書誌・近代画像データベース