守住 勇魚(もりずみ いさな、嘉永7年11月8日1854年12月27日) - 昭和2年(1927年3月4日)は、日本洋画家徳島県徳島市出身。父は守住貫魚。妹に守住周魚がいる。

生涯

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守住貫魚の次男として徳島市中央通に生まれる。幼年の頃から父に住吉派の絵を習う。明治4年3月から翌年8月まで、藩校の長久館内にある外国語学伝習所でドンクル・キュルチスに学ぶ。一方で明治5年(1872年)3月に父の家督を継いでいる。

明治8年(1875年)に上京し、5月5日国沢新九郎の私塾彰技堂で画学を学んだ。翌1876年工部美術学校に入学。明治11年(1878年)に浅井忠らと工部美術学校を連袂退学し、十一会を結成。一時郷里の徳島に帰るが、翌1879年に大阪専門学校(後の第三高等学校)の画学教員に就任、明治29年(1896年)10月に三高助教授で依願免官になっている。また、明治28年(1895年)から大正6年(1917年)まで同志社の画学科を担当し、三高や京都高等工芸学校にも出講している。その間に京都に移り再び日本画を手掛ける。

工部美術学校出身者は勇魚のように教育者になった者は多いが、勇魚の場合は普通教育の中にあり、名を成した後輩を育てることはなかった。画家としては明治15,16年(1882-83年)に石版印刷工房臥龍館から『大成普通画学本』10冊を出版している。また、しばしば川島織物に依頼されて、錦綴の下絵を伝統的な着色日本画の様式で描いている。

作品

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作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
武具・文具曝涼図屏風 絹本著色 六曲一双 川島織物文化館 武具図屏風:1900年(明治33年) 文具図屏風:1911年(明治44年)[1]
勿来関図 絹本著色 1幅 117.1x41.1 泉屋博古館分館 1920年(大正9年)

脚注

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  1. ^ 徳島県立博物館編集 ・発行 『徳島県立博物館企画展図録 阿波の近世絵画 --画壇を支えた御用絵師たち--』 1997年、pp.30-31

参考資料

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関連項目

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