孟 光(もう こう、拼音: Mèng Guāng、生没年不詳)は、中国後漢時代の女性。字は徳曜司隷右扶風平陵県の人。『後漢書』や『列女伝』において、清貧に甘んじ夫を敬う婦徳の体現者として描かれた[1]。孟光の伝承は日本にも波及しており、数々の文芸作品に見出すことができる[2]

孟光提甕(改琦中国語版『列女図』)

略歴

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孟氏の娘は太って醜く、色黒で、力持ちだった[3]。しかし節操が固く[4][注釈 1]、30歳になるまで結婚の意思を持たずにいた。その理由について両親から尋ねられると、彼女は「梁伯鸞(梁鴻)のように賢徳な方を求めております」と言った[3]。彼女と同郷である梁鴻は高節な隠士として名高く、娘を嫁がせたいという希望が大家から多く寄せられたが、彼もまた誰とも結婚しようとしなかった[3]。しかし孟氏の娘のことを耳にすると、ついに彼女を娶った[3]

嫁入りに際して、孟氏の娘は布衣や麻履(麻製の草履)といった粗末な衣装を仕立て、糸紡ぎに使う道具などを用意したが、まず着飾って梁鴻の家を訪れた。すると梁鴻は、7日間にわたり彼女のことを無視した[3]。彼女が跪いて「聞くところによれば、夫子(あなた)は徳義に優れた方で、何人もの婦人を退けてきたとのこと。妾(わたくし)もまた数々の殿方をあしらいました。今こうして分かたれている理由をお教えください」と尋ねると、梁鴻は「私が求めたのは粗末な服を着て、共に山の奥深くに隠れられるような人物だ。おまえは今、このように煌びやかな衣服を着て、白粉や眉墨といった化粧をしている。どうして私の望むところであろうか」と答えた[3]。これに対して、孟氏の娘は「夫子の志を拝見したかったのです。妾もまた、隠れ住むための服を持っております」と言うと、髪型を椎髻(ついけい)にし、質素な衣服に着替えてから、再び梁鴻の前に姿を現した[3]。梁鴻は大喜びして、「これぞまさしく梁鴻の妻だ。私に仕えるにあたうものだ」と言った[3]。そして彼女に徳曜という字と、光という名を与えた[3][6][7]

それからしばらくして、孟光は夫に対して「夫子は隠遁して患いを避けるのがお望みだと常々お聞きしておりましたが、どうして今は黙々と何もおっしゃらないのでしょう。頭を低くして〔現世に〕妥協なさるのですか」と言った。梁鴻は「おまえの言う通りだ」と答えた。彼らは家族揃って霸陵山に隠棲し、耕作と機織りを生業とした。梁鴻は詩書を詠み、琴を爪弾くことで楽しんだという[8]

また梁鴻は首都の洛陽を訪れた際、都の絢爛さと人々の労苦を見て、五噫(ごい)の歌を詠んで嘆いた[9]。これを聞いた章帝は快く思わず、指名手配された梁鴻は改名しての間に逃げた[10]

後に梁鴻は会稽郡)に移住すると、現地の豪族である皐伯通を頼り、米搗きをして賃銭を得た[11]。孟光は帰宅した夫に食事を勧める際、案(机)を眉の高さまで持ち上げて彼を直視しないようにすることで、梁鴻に対して礼を尽くし、敬意を示した(挙案斉眉[12][13]。皐伯通はこの様子を見て素晴らしいと考え、「この傭夫は妻にかくも敬われているからには、非凡な者であろう」と言うと、彼らの住まいを自宅の廊下から部屋へと移してやり、著作に専念できるようにした[13][注釈 2]。孟光は「道を好み貧に安んじる」賢妻として評された[14][15]

梁鴻の死後、孟光は子と共に故郷である扶風へと帰った。

後世における受容

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中国

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孟光故事の伝播は、『後漢書』、『列女伝』、『東観漢記』、袁宏後漢紀中国語版』、皇甫謐高士伝中国語版』などといった伝記集に基づいた唐代前期の形成期と、それ以降の受容期の二つに分けることができる[16]

唐代

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初唐の類書『芸文類聚』には、孟光の伝承が『東観漢記』から引用されるかたちで収録されている[17][18]。また李翰による教本『蒙求』において、孟光は「孟光荊釵」という標題で言及される[19][20]。「荊釵(イバラのかんざし)」という語は『蒙求』以前の『後漢書』などの先行する諸書には現れないが、これは『蒙求』の撰者が押韻のために改変したものと見られる[21]。椎髻は漢代当時における一般女性の日常的な髪型だったが、・唐に時代が下ると、釵のような道具を用いる髪型が流行した[22]。「椎髻」から「荊釵」への変化は、従来の清貧のイメージを崩さずに押韻を保つだけでなく、当時の風俗が反映されていることを示す[22][注釈 3]。そして、『蒙求』が当時一世を風靡した教本だったことも要因となり、「荊釵」または「荊釵布裙」という表現は孟光と関連づけられるようになった[22]。また「孟光荊釵」は馬皇后を題材にとった標題「馬后大練」との対句となっており[21][23]、皇族との対比で、一般士人の質素な妻を代表するものともなっている[24]

中唐の詩人である白居易は、妻である楊氏を指す語として「孟光」を複数の詩中で用いており[25]、孟光はここにおいて理想的な妻の表象として現れている[26]。特に彼女に贈った「贈内」では、梁鴻・孟光夫妻を自身と楊氏に準えているが、白居易はそこで清貧の教訓のみならず夫婦間の情愛を作中に織り込むことで、自身たちの慎ましい夫婦円満を願っている[27][28]

元代

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元代雑劇において、孟光は高官の娘で美しい才女という設定である。その伝承も、両親の反対を押し切って貧しい梁鴻と身分違いの結婚をした後、状元に及第し、一家が皇帝から褒賞を授かるという筋書きに変更されている[29]

日本

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平安時代

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平安時代中期の公卿である藤原行成は自身の日記『権記』において、妻を「孟光」と呼ぶ。章剣はこれについて、藤原行成は白詩(白居易の詩)を書写したこともあり、文人貴族としてそれに通暁していたことは違いないとして、白詩による影響を見出している[16]

平安時代末期に編纂された『幼学指南鈔』は、『芸文類聚』や『初学記』を底本とする。『扶桑集』。同じく平安時代の『唐物語』や鎌倉時代の『十訓抄』でも孟光の伝承について触れられているが、人物の行動に対して客観的な視点を向ける中国の筆致とは対照的に、容姿の醜さと対比される孟光の個人的な心情により重きを置いた、日本的に翻案された描写がなされている[30]

鎌倉時代

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鎌倉時代の政治家であり、源頼朝の妻でもある北条政子は、『承久記』において孟光に喩えられる[16]。桐島薫子によれば、この比喩は『白氏文集』から引かれたもので、白居易・楊氏夫婦のように教訓的かつ情緒的な夫婦像の投影だという[31]

夫が自身の妻に対して用いる「荊妻」という謙称は、中国では『蒙求』の影響により宋代から見られるようになったが[注釈 4]、日本語としても定着した[16][32]

脚注

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注釈

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  1. ^ これは『列女伝』にのみ見られる記述であり、女性の徳行を強調するよう書き直された結果である[5]
  2. ^ この逸話は本来の文脈上、妻にそう振る舞われる梁鴻を称えるものである。しかし『列女伝』においては、孟光その人を称えるように書き換えられている[5]
  3. ^ 椎髻は髪を束ねる方式であるため、本来であれば髪留めは不要である[22]
  4. ^ 「荊妻」以外にも、妻をへりくだって示す呼称が多数存在する[16]

出典

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  1. ^ 桐島 2001, p. 119; 章 2011, p. 71; Zhou 2024, p. 206.
  2. ^ 桐島 2001, pp. 124–128.
  3. ^ a b c d e f g h i Zhou 2024, p. 224.
  4. ^ 『列女伝』巻8梁鴻妻伝. 中国哲学書電子化計画. 2025年2月24日閲覧, "梁鴻妻者,右扶風梁伯淳之妻,同郡孟氏之女也。其姿貌甚醜,而德行甚修。"
  5. ^ a b 章 2011, pp. 70–71.
  6. ^    (中国語) 『後漢書』巻83梁鴻伝, ウィキソースより閲覧, "女求作布衣、麻屨,織作筐緝績之具。及嫁,始以裝飾入門。七日而鴻不荅。妻乃跪牀下請曰:「竊聞夫子高義,簡斥數婦,妾亦偃蹇數夫矣。今而見擇,敢不請罪。」鴻曰:「吾欲裘褐之人,可與俱隱深山者爾。今乃衣綺縞,傅粉墨,豈鴻所願哉?」妻曰:「以觀夫子之志耳。妾自有隱居之服。」乃更爲椎髻,著布衣,操作而前。鴻大喜曰:「此真梁鴻妻也。能奉我矣!」字之曰德曜,名孟光。" 
  7. ^ 『列女伝』巻8梁鴻妻伝. 中国哲学書電子化計画. 2025年2月24日閲覧, "孟氏盛飾入門,七日而禮不成。妻跪問曰:「竊聞夫子高義,斥數妻。妾亦已偃蹇數夫。今來而見擇,請問其故。」鴻曰:「吾欲得衣裘褐之人,與共遁世避時。今若衣綺繡,傅黛墨,非鴻所願也。」妻曰:「竊恐夫子不堪。妾幸有隱居之具矣。」乃更麄衣,椎髻而前。鴻喜曰:「如此者,誠鴻妻也。」"字之曰德曜,名孟光[...]。
  8. ^    (中国語) 『後漢書』巻10明徳馬皇后伝, ウィキソースより閲覧, "居有頃,妻曰:「常聞夫子欲隱居避患,今何爲默默?無乃欲低頭就之乎?」鴻曰:「諾。」乃共入霸陵山中,以耕織爲業,詠詩書,彈琴以自娛。" 
  9. ^ 五噫」『精選版 日本国語大辞典』小学館https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%99%ABコトバンクより2025年2月24日閲覧 
  10. ^    (中国語) 『後漢書』巻83梁鴻伝, ウィキソースより閲覧, "居有頃,[梁鴻]妻曰:「常聞夫子欲隱居避患,今何爲默默?無乃欲低頭就之乎?」[]鴻曰:「諾。」乃共入霸陵山中,以耕織爲業,詠詩書,彈琴以自娛。[...]因東出關,過京師,作五噫之歌曰:「陟彼北芒兮,噫!顧覽帝京兮,噫!宮室崔嵬兮,噫!人之劬勞兮,噫!遼遼未央兮,噫!」肅宗聞而非之,求鴻不得。乃易姓運期,名燿,字侯光,與妻子居齊魯之間。" 
  11. ^ 大川 1985, p. 72.
  12. ^ 挙案斉眉」『新明解四字熟語辞典』三省堂goo辞書より2025年3月6日閲覧。
  13. ^ a b 大川 1985, p. 72; Zhou 2024, p. 225.
  14. ^ 章 2011, p. 70.
  15. ^ 『列女伝』巻8梁鴻妻伝. 中国哲学書電子化計画. 2025年2月24日閲覧, "後復相將至會稽,賃舂為事。雖雜庸保之中,妻每進食,舉案齊眉,不敢正視。以禮修身,所在敬而慕之。君子謂:「梁鴻妻好道安貧,不汲汲於榮樂。」論語曰:「不義而富且貴,於我如浮雲。」此之謂也。"
  16. ^ a b c d e 章 2011, p. 78.
  17. ^ 章 2011, pp. 71–72.
  18. ^    (中国語) 『芸文類聚』巻67衣冠部, ウィキソースより閲覧, "東觀漢記曰.梁鴻鄉皇〈○東觀漢記作里.〉孟氏女.容貌醜而有節操.多求之.不肯.父母問其所欲.曰.得賢婿如梁鴻者.鴻聞之.乃求之.女布襦裾.鴻曰.此真梁鴻妻也." 
  19. ^ 桐島 2001, pp. 120–121.
  20. ^    (中国語) 『蒙求』, ウィキソースより閲覧, "馬后大練,孟光荆釵。" 
  21. ^ a b 章 2012, p. 71.
  22. ^ a b c d 章 2012, p. 72.
  23. ^    (中国語) 『後漢書』巻10明徳馬皇后伝, ウィキソースより閲覧, "常衣大練,裙不加緣。" 
  24. ^ 桐島 2001, p. 121.
  25. ^ 章 2011, p. 77; 黄 2004, pp. 88–89, 101–102.
  26. ^ 黄 2004, p. 101.
  27. ^ 桐島 2001, pp. 121–122; 章 2011, pp. 76–77.
  28. ^    (中国語) 『白氏長慶集』「贈内」, ウィキソースより閲覧, "梁鴻不肯仕,孟光甘布裙。[...]庶保貧與素,偕老同欣欣。" 
  29. ^ 章 2011, p. 71.
  30. ^ 章 2011, pp. 75–76.
  31. ^ 桐島 2001, pp. 127–129.
  32. ^ 荊妻」『デジタル大辞泉』小学館https://kotobank.jp/word/%E8%8D%8A%E5%A6%BBコトバンクより2025年2月24日閲覧 

参考文献

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日本語文献

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  • 大川富士夫「後漢代の会稽郡の豪族について」『立正大学文学部論叢』第81号、1985年、59–80頁、hdl:11266/3742 
  • 桐島薫子「孟光故事の変容——白居易の妻と北条政子——」(PDF)『日本中国学会報』第53集、2001年、117–132頁。 
  • 章剣「藤原行成はなぜ妻を「孟光」と称するのか—日本における孟光像の一考察—」『中国中世文学研究』第59号、2011年、69–79頁。 

中国語文献

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  • 黄韓「白居易的"贈内詩"」『神奈川大学大学院言語と文化論集』第11号、2004年、83–111頁、hdl:10487/13794 
  • 賈秋燕「从“挙案斉眉”看漢代的夫妻関係」『九江学院学報(社会科学版)』第1期、2012年、77–79頁。 
  • 焦傑「東漢夫妻関係中的男性与女性」『文史知識』第7期、2014年、10–16頁。 
  • 章剣「《蒙求》“孟光荊釵”考」『九江学院学報(社会科学版)』第1期、2012年、69–73頁。 

英語文献

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関連項目

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外部リンク

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