太田資美
太田 資美(おおた すけよし)は、江戸時代後期の大名。遠江国掛川藩の第7代(最後の)藩主。上総国松尾藩知事。掛川藩太田家11代。
太田資美 | |
時代 | 江戸時代末期 - 大正時代初期 |
生誕 | 嘉永7年2月24日(1854年3月22日) |
死没 | 大正2年(1913年)12月28日 |
別名 | 総次郎(通称) |
墓所 |
東京都荒川区西日暮里の本行寺 静岡県三島市の妙法華寺 |
官位 | 従五位下・備中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 遠江掛川藩主→上総柴山藩主→上総松尾藩知事 |
氏族 | 太田氏 |
父母 |
父:太田資始、母:不詳 養父:太田資功(異説あり) |
兄弟 | 資功、秋元礼朝、内藤政挙、資美、宝、籌、相馬充胤継々室、短子、松平忠誠正室 |
妻 | 正室:間部詮勝の娘・薬普 |
子 | 資業、成瀬正雄夫人 |
生涯
編集第5代藩主・太田資始の七男(先代藩主・太田資功の四男との説もある)。文久2年(1862年)3月29日、養父・資功の死去により、家督を継いだ。わずか8歳であり、資始が補佐したと伝わる。慶応4年(1868年)1月14日、旧幕府から駿府城の守備を命じられる。同年2月1日、駿府城から撤退する。同年3月21日、新政府への恭順の姿勢を示すために上洛し、同年3月26日、参内する。同年4月15日、従五位下・備中守に叙任する。同年9月21日、駿河国・遠江国・三河国に徳川家達が移封となったため、上総夷隅郡内5万3000石余に移封を命じられる。同年11月10日、上総山辺郡内5万3350石へ移封を改めて命じられる。明治2年(1869年)5月16日、「柴山藩」を称することにする。明治2年(1869年)6月17日、版籍奉還で知藩事となる。その後、武射郡内に松尾城を築城して明治4年(1871年)1月に藩庁を移し、松尾藩に改称した。資美は藩校の「教養館」や病院「好生所」などの創設に尽力し、財政政策のため、物産会所を設置し、養蚕を奨励するなど、わずか4年の期間ながら優れた手腕を見せた。
明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で知藩事職を免ぜられる。明治9年(1876年)12月、宮中祗候に就任する。明治17年(1884年)7月8日に子爵を叙爵[1]。明治期には慶應義塾が外国人教師(クリストファー・カロザースら)を招く際の財的支援や、東京仏学校(法政大学の前身の一つ)の設立に尽力するなど教育・芸術関連に貢献した[2]。
家族
編集父母
妻
- 薬普 ー 間部詮勝の娘
子女
脚注
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (掛川)太田家初代 1884年 - 1913年 |
次代 太田資業 |