太田村 (埼玉県南埼玉郡)

日本の埼玉県南埼玉郡にあった村

太田村(おおたむら)は埼玉県の北東部、南埼玉郡に属していた。現在は久喜市立太田小学校などに名をとどめる。

太田村
廃止日 1954年7月1日
廃止理由 新設合併
久喜町、太田村江面村清久村 →久喜町
現在の自治体 久喜市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 埼玉県
南埼玉郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
面積 5.92[1] km2.
総人口 4,102
(『久㐂』[1]、1954年7月1日)
隣接自治体 南埼玉郡久喜町、江面村、鷲宮町
須賀村北葛飾郡桜田村上高野村高野村
太田村役場
所在地 埼玉県南埼玉郡太田村大字吉羽地内
(現:久喜市太田集会所)
座標 北緯36度03分56秒 東経139度41分14秒 / 北緯36.06547度 東経139.68733度 / 36.06547; 139.68733 (太田村)座標: 北緯36度03分56秒 東経139度41分14秒 / 北緯36.06547度 東経139.68733度 / 36.06547; 139.68733 (太田村)
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地理

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河川

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池沼

地名(小字)

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注1:青毛の読み方は一般には「アオゲ」と読まれるが、古くからの住民には「オオゲ」という発音が定着している。このため地区名を「オオゲ」、青毛堀川を「オオゲ ボリ」と呼ぶ姿もよく見られる。これは中世の村名に「大毛」の文字が当てられていたことに由来する。

注2:「野久喜と古久喜」・「吉羽と西」はそれぞれ飛地の形状で複雑に入り組んでいたため[2][3][4]、上記の他に多くの小字が共通している。

歴史

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  • 1873年明治6年) - 吉羽学校が開校。
  • 1882年(明治15年)6月 - 村域各村が幸手警察署の所轄となる。
  • 1884年(明治17年) - 西村の名で連合戸長役場が置かれ、青毛村・栗原村・古久喜村・野久喜村・西村・吉羽村が連合し、吉羽村20番地の蜜蔵院を借り受け、戸長役場が設けられる。
  • 1888年(明治21年) - 久喜幸手道(幸手新道・久喜新道)が後の村域を通過し、開通する。
  • 1889年(明治22年)
    • 4月1日 - 町村制施行により、青毛村、栗原村、古久喜村、野久喜村、西村、吉羽村が合併し南埼玉郡太田村が成立する。
    • 同年 - 吉羽学校が太田尋常小学校と改称する。
  • 1890年(明治23年)5月 - 南埼玉郡長の中村孫兵衛による知事への報告において、「村会議員の適否」・「町村会の情況」・「吏員と議会人民との折合」において「甲」の評価を受ける。『町村行政監督意見書』において第一等の評価を受ける。
  • 1891年(明治24年)6月 - 太田村の他、南埼玉郡久喜町鷲宮村須賀村篠津村江面村清久村の1町6箇村において勧業会が設置される。
  • 1892年(明治25年)
    • 太田尋常小学校に補習科が設置される。同年、授業料の減額により太田尋常小学校の不就学生徒が355人より292人へと減少する。(就学率:50%未満
    • の栽培が盛んになる。当時の作付面積は4であった。
  • 1900年(明治33年)
    • 授業料の無償化により太田尋常小学校の不就学生徒数が34人となる。(就学率:90%)
    • 同年2月15日 - 太田尋常小学校の校舎が火災により焼失する。
  • 1902年(明治35年)6月1日 - 村域が岩槻警察署久喜分署の管轄となる。
  • 1908年(明治41年) - 在住の15歳より35歳の青年をもって青年会が組織される。
  • 1910年(明治43年)8月 - 明治43年の大水害により水害が発生する。
  • 1917年大正6年) - 太田農業補習学校が発足する。
  • 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により栗原・吉羽・西付近において震度9から10を記録する。この地域では液状化現象も発生する。青年団は久喜停車場高架線東武伊勢崎線)に出動し、幸手新道において休憩所を設け罹災者の救援にあたる。
  • 1925年(大正14年) - 太田農業補習学校が学則変更により太田公民学校と改称する。
  • 1926年(大正15年)7月1日 - 太田村青年訓練所が開所する。
  • 1932年昭和7年)4月 - 栗原の琵琶溜井に「葛西用水路五閘改修之碑」が建立される。
  • 1933年(昭和8年) - 南埼玉郡・北葛飾郡北足立郡における141の青年訓練所の参加により綾瀬川沿いにおいて合同演習が実施される。
  • 1935年(昭和10年)6月18日 - 太田村青年訓練所が青年学校への名称変更を申請する。
  • 1941年(昭和16年) - 太田尋常小学校が太田国民学校となる。
  • 1947年(昭和22年)
  • 1948年(昭和23年) - 太田農業協同組合が設立される。
  • 1950年(昭和25年)1月 - 太田村立太田中学校の新校舎落成式が行われる。
  • 1954年(昭和29年)7月1日 - 久喜町、江面村清久村と合併し、改めて久喜町となる。合併後は旧村名から太田地区と呼称される。
  • 1971年(昭和46年)10月1日 - 久喜町が市制施行して久喜市となる。

産業

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農業 1875年明治8年)時点における村域の田畑の比率として、21.3%(925)・78.7%(341町3反)であった。1887年(明治20年)の調査では、田36%(167町3反)・畑64%(296町8反)となっている。これは村域の多くが古利根川自然堤防の発達した位置に置かれていることと関係している[5]

工業

  • レンガ工場(レンガこうば) - 現栗原より青葉にまたがり営業していた工場。粘土は主に近隣の田より仕入れ、生産物馬車によって久喜幸手新道を通り出荷されていった。

教育

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出身有名人

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神社・寺・史蹟・祭典

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注意:この節に記した神社寺院は過去に存在していたが、合祀等により閉村時点で現存していなかったものを含む。

事件・事故

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関連項目

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脚注・参考資料

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脚注
  1. ^ a b 『久㐂』(昭和39年11月28日発行) 久喜町総務課 編
  2. ^ 野久喜・古久喜周辺 - Goo地図 ホームページ
  3. ^ 『久喜新・久喜本・野久喜・古久喜(複製)』 行政資料番号 No.3637 久喜市公文書館
  4. ^ 吉羽・西周辺 - Goo地図 ホームページ
  5. ^ 『久喜市史 通史編 下巻(93ページ〜97ページ)』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成4年1月20日 発行
  6. ^ 『久喜市史 民俗編(233ページ)』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成3年3月25日 発行
参考資料
  • 『久喜市史調査報告書 第1集 地誌』 久喜市史編さん室 編集 久喜市 発行 昭和58年3月25日 発行
  • 『久喜市史 通史編 下巻』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成4年1月20日 発行

外部リンク

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