大竹タモツ
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大竹 タモツ(おおたけ たもつ、生没年不詳)は、戦前から戦後にかけて活躍した日本の喜劇俳優、コメディアン。主に自らの一座を率いて活動した。門下生にボーイズの元祖「あきれたぼういず」の坊屋三郎、益田喜頓、芝利英がいる。本名・大竹保。
来歴
編集戦前の1933年(昭和8年)12月、大阪松竹座のアトラクションとして自らが率いる「オオタケ・フォーリーズ」を旗揚げ。漫画の舞台化をモットーとし、泥臭いながら気の利いたナンセンス劇をやっていたという。益田喜頓、芝利英がいたのはこの時期である。
その後、市川右太衛門プロダクションでの映画出演を経て上京。浅草の常盤座や昭和座を経て、吉本興業(東京吉本)に入る。1936年(昭和11年)6月から「オオタケ・フォーリーズ」のユニットで浅草花月劇場に出演。初出演時の演目は、小山田三四郎脚色「雁太郎街道」であった。坊屋三郎が芝利英と合流したのはこの時期である。
しかし、1937年(昭和12年)4月から浅草花月の実演は「吉本ショウ」のみとなり、演目から「オオタケ・フォーリーズ」は消滅する。大竹は単身「吉本ショウ」の俳優として活躍し、中村是好の代役などを務める傍ら、横浜花月劇場などでの地方巡業では、白河夜舟、牧昇二、竹中良一、壱岐メリーらと「オオタケ・フォーリーズ」でボーイズ風コントを演じていた。
1939年(昭和14年)5月、「あきれたぼういず」と共に新興キネマ演芸部へ移籍。1942年(昭和17年)の戦時統合で新興キネマが大都映画と合併したことから、東京吉本へ復帰する。
戦後、東京吉本が演芸事業から一時撤退したため、フリーとなる。以後は「漫画座」と称するファミリー4人組を結成してコントを演じ、新宿の松竹文化演芸場が閉館する1962年頃まで活躍していた。初期のテレビドラマにも多く出演しており、『快傑ハリマオ』『隠密剣士』では敵役を演じていたが、晩年は消息不明であった。
出演作品
編集映画
編集- お江戸紳士録(1934年、市川右太衛門プロダクション)
- 中仙道を行く退屈男(1935年、市川右太衛門プロダクション) - 早足の三次 役
- 中仙道を行く退屈男 後篇 十万石を裁く退屈男(1935年、市川右太衛門プロダクション) - 早足の三次 役
- 笑う地球に朝が来る(1940年、南旺映画)