大沢基隆
大沢 基隆 (おおさわ もとたか)は、江戸時代中期の高家旗本。遠江国堀江領主。官位は従四位下・侍従、右衛門督。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄2年(1689年) |
死没 | 享保15年7月15日(1730年8月28日) |
戒名 | 風月院殿 |
官位 | 従四位下・侍従、右衛門督 |
幕府 | 江戸幕府 高家旗本 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
氏族 | 大沢氏(持明院家庶流) |
父母 |
父:大沢基明、母:本庄宗資娘 養父:大沢基恒 |
子 | 基朝、近藤英用、戸川村由妻、柴田勝曠妻 |
生涯
編集大沢基明の子として誕生した。母は本庄宗資の娘。大沢基恒の養子となる。
元禄10年(1697年)7月11日、養父の没後家督を継ぐ。8月28日に5代将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄15年(1702年)12月18日、従五位下侍従に叙任、右衛門督を兼ね、奥高家となる。宝永2年(1705年)3月23日、遠江豊田、山名、敷智三郡内高塚村など7村、1000石を加増された。宝永5年(1708年)11月23日、江戸城西の丸の御側高家となり、宝永6年(1709年)4月15日、従四位下に昇進した。
正徳2年(1712年)10月7日、織田信門と共に諸事を勤める。しかし正徳3年(1713年)6月、不行跡とのことで、免職の上出仕を留められ、雉子橋にあった邸も没収、寄合に落とされたが、同年10月3日に許され元の地位に復した。享保15年(1730年)、42歳で没した。
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