大沢基重
大沢 基重(おおさわ もとしげ)は、江戸時代前期の高家旗本。通称は虎松。官位は従四位下・侍従、右京亮。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長7年(1602年) |
死没 | 慶安3年5月26日(1650年6月24日) |
別名 | 通称:虎松 |
戒名 | 康庵寺殿押山勝英大居士 |
墓所 | 吉祥寺 |
官位 | 従四位下・侍従、右京亮 |
幕府 | 江戸幕府 高家旗本 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
氏族 | 大沢氏(持明院家庶流) |
父母 | 父:大沢基宿、母:一条信龍娘 |
兄弟 |
基重、持明院基定、基成、基近、 山名豊政正室ら4男2女 養兄弟:基賀 |
妻 | 正室:近藤季用娘 |
子 |
基将、尚親、基哲、土方勝次室、 中野弘吉室、松平乗延[1]室 |
生涯
編集大沢基宿の長男として誕生した。
慶長15年(1610年)、従五位下・侍従・右京亮に叙任する[注釈 1]。同年、部屋住ながら、2代将軍・徳川秀忠に召し出されて、「近侍」することになる。また、遠江国敷知郡内で1000石を賜る。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に際し、水野忠清の部隊に所属し参加する。元和元年(1615年)、大坂夏の陣に参加し、首一級を得る戦功を挙げる。
寛永9年(1632年)9月12日、父・基宿の隠居により家督を相続する。寛永17年(1640年)、基宿の死去により、その遺領と合わせて2550石余を領有する。寛永18年(1641年)3月、同年7月、正保2年(1645年)5月と3度にわたって朝廷に対する幕府の使者として上洛する。実質的な高家職の役割を果たす。正保2年(1645年)6月10日、従四位下に昇進する。慶安2年(1649年)7月、朝廷に対する幕府の使者として上洛する。慶安3年(1650年)5月26日、死去。享年49。
系譜
編集子女は3男3女。3女とも尚親の妹。
脚注
編集注釈
編集出典
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