大江挙周
大江 挙周(おおえ の たかちか)は、平安時代中期の貴族。式部大輔・大江匡衡の子。官位は正四位下・式部大輔。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永承元年(1046年)6月 |
官位 | 正四位下・式部権大輔 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇 |
氏族 | 大江氏 |
父母 |
父:大江匡衡 母:赤染時用娘・赤染衛門 |
兄弟 |
挙周、持隆、匡子、能公 養兄弟:時棟、林豪 |
妻 | 高階明順娘 |
子 | 成衡、能高 |
経歴
編集父・匡衡と同様に紀伝道に進み、文章得業生を経て、長保3年(1001年)対策に及第。なお、『本朝文粋』には対策の答案が採録されている[1]。寛弘3年(1006年)一条天皇の東三条殿行幸の際に父・匡衡に従った挙周が作った文が評価されて六位蔵人に任ぜられた[2]。
寛弘5年(1008年)ごろ巡爵により従五位下・筑前権守に叙任される。三条朝に入ると、春宮・敦成親王の東宮学士に任ぜられ、長和3年(1014年)敦成親王の御読書始の御博士役を務めた[3]。
長和5年(1016年)敦成親王の践祚(後一条天皇)に伴って従四位下に叙せられる。後一条朝では侍読や文章博士を務めて正四位下・式部権大輔に至った。また、地方官として、和泉守・三河守・丹後守を兼帯した。
後冷泉朝初頭の永承元年(1046年)6月卒去。臨終に際して、自らの学者としての生涯に満足していると語り、絶命のとき瑞相が出現したという(『続本朝往生伝』)。
逸話・説話
編集挙周の出世が伸び悩んでいる時に、母の赤染衛門は藤原道長の妻倫子に歌を送った。
- おもへきみかしらの雪をうちはらひ 消えぬさきにといそぐ心を
- (頭にふりかかる雪を打ち払いながら、雪のように我が身が消えないうちにと急ぐ心を、どうぞお察し下さい)
頭の雪=自分の白髪とかけ、年老いつつも息子を案じる母の心を詠んだ歌であるという。
道長はこの歌を見て同情の心が湧き、挙周は和泉国国司に任じられた。だが挙周は国司赴任中に病にかかってしまった。挙周の病は重くなる一方であったので、赤染衛門は京から急いでかけつけ、住吉神社で息子の治癒を祈願した。御幣には一首の歌が添えられていた。
- 代はらむと思ふ命は惜しからで さても別れむほどぞ悲し
- (息子の命と代えようと言う私の命は惜しくないけれども、そうして息子と別れるならばやはり悲しいことであるよ)
自分の命を捧げても惜しくはないので、息子だけは助けてほしいという歌であった。やがて挙周の病は全快したが、母の行動を伝え聞いた挙周は同じように住吉神社に赴き、「母が死んでは生きてはいけないので、母が捧げた命は自分の命で補ってほしい」と祈ったという。
以上の説話は『赤染衛門集』、『今昔物語集』巻第二十四に収められるほか、『十訓抄』巻十、『古今著聞集』巻五などの説話集にもとられて広く流布した(本記事の歌は『今昔物語集』の本文による)。
官歴
編集- 長保2年(1000年) 12月2日:見文章得業生[4]
- 長保3年(1001年) 9月26日:対策及第[4]。12月25日:見播磨少掾文章得業生正六位上[5]
- 寛弘3年(1006年) 日付不詳:式部少丞[6]。3月4日:六位蔵人[7]
- 寛弘5年(1008年) 9月11日:見筑前権守従五位下[8]
- 寛弘8年(1011年) 8月2日:見東宮学士(春宮・敦成親王)[4]
- 長和5年(1016年) 2月8日:還昇(四位)[9]
- 寛仁3年(1019年) 2月6日:見和泉守[9]
- 万寿3年(1026年) 10月9日:見三河守[10]
- 長元元年(1028年) 7月19日:見木工頭[10]
- 長元4年(1031年) 2月10日:見文章博士[10]。11月2日:見式部権大輔[10]
- 長元8年(1035年) 10月4日:見式部権大輔文章博士木工頭伊予介正四位下[11]
- 長元9年(1036年) 日付不詳:兼丹後守[12]
- 永承元年(1046年) 6月:卒去[13]