大江定経
美濃守、正四位下、三河守。子に清定(蔵人、備前守、従五位上)-近定、清綱(出雲守、従五位上)-通定
経歴
編集長和5年(1016年)後一条天皇の践祚に伴い六位蔵人に補せられ、蔵人を務める傍らで左兵衛尉・式部丞を兼ねた。のち、巡爵により従五位下に叙せられ、三河守として受領となった。国司の任期後、右兵衛佐・内蔵権頭と京官を歴任するが、後一条朝末にかけて美作守も兼帯している。
後朱雀朝の長久元年(1040年)上東門院行幸賞により正四位下に至る。この加階は上東門院の意向によるものであったが、非常に具合の悪い取り扱いだとして、蔵人頭・藤原資房に批判されている(『春記』)。
のち、美濃守も務めた。
官歴
編集- 長和5年(1016年) 正月29日:六位蔵人、左兵衛尉如元[1]
- 寛仁2年(1018年) 3月7日:見蔵人式部丞[2]
- 時期不詳:従五位下
- 治安2年(1022年) 7月14日:見三河守[3]
- 万寿4年(1027年) 4月6日:見右兵衛佐[1]
- 長元4年(1031年) 2月17日:昇殿[1]。3月29日:内蔵権頭[1]
- 長元8年(1035年) 5月16日:見美作守[4]
- 長元9年(1036年) 12月22日:見内蔵頭兼美作守[5]
- 長久元年(1040年) 12月21日:正四位下(上東門院行幸賞)[6]
- 寛徳2年(1045年) 日付不詳:見美濃守[7]
- 承暦元年(1077年) 8月29日:見故美濃守[8]
系譜
編集『尊卑分脈』による。