大橋房太郎
大橋 房太郎(おおはし ふさたろう、1860年11月26日(万延元年10月14日) - 1935年(昭和10年)6月30日[1])は、大阪府出身の政治家。大阪府を流れる淀川の治水に一生を捧げ、治水翁と呼ばれた。
略歴
編集摂津国東成郡榎本村(現在の大阪府大阪市鶴見区)放出(はなてん)の庄屋に生まれた。
東京で鳩山和夫邸の書生をしていた時、1885年(明治18年)の淀川の大洪水のことを知った。急遽帰阪し、惨禍を眼のあたりにして、淀川治水の大事業に取り組むことを決意する。
その後、房太郎らの努力が実り、1896年(明治29年)、国レベルでの河川法が制定され、淀川改修費が出されるとの両院の可決をみた。その時傍聴席にいた房太郎は思わず「万歳!」と大声をはりあげた[2]為、守衛に場外に連れ出されるという場面もあった。
淀川治水のため私財をなげうち、生涯清貧を貫いた井戸塀の政治家で、晩年にも陋屋に住んでいた。
葬儀は大阪市葬で大阪市中央公会堂で行われた。墓所は大阪市鶴見区放出東の正因寺。二男の治房も社会運動家を経て大阪府会議長を務めた。
伝記
編集- 小川清『淀川の治水翁 大橋房太郎伝』東方出版、2010年