大岡忠愛
日本の江戸時代後期の大名。三河西大平藩5代藩主大岡忠移長男で、西大平藩6代藩主(大岡忠世家8代当主)。従五位下紀伊守・越前守。将軍鹿狩御用掛・奏者番・大番頭等を歴任
大岡 忠愛(おおおか ただよし)は、三河国西大平藩第6代藩主。大岡忠世家8代当主。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化4年(1807年) |
死没 | 安政4年10月5日(1857年11月21日) |
改名 | 相太郎(幼名)、忠愛 |
墓所 | 浄見寺 |
官位 | 従五位下・紀伊守、越前守 |
幕府 |
江戸幕府 日光祭礼奉行、大坂加番、 大番頭、大坂在番、奏者番 |
藩 | 三河国西大平藩主 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 | 大岡忠移、増山正賢の娘 |
兄弟 | 忠愛、忠敬ほか |
妻 | 松平忠翼の娘・操子[1] |
子 | 養子:忠敬 |
文化4年(1807年)、西大平藩第5代藩主大岡忠移の長男として生まれる。文政11年(1828年)に忠移の隠居により家督を相続する。文政12年(1829年)に日光祭礼奉行、天保2年(1831年)に大坂加番、天保8年(1837年)に大番頭、天保14年(1843年)に大坂在番と歴任し、嘉永5年(1852年)に奏者番に就任する。また第12代将軍徳川家慶の鹿狩御用掛を務めた。安政4年(1857年)10月5日に死去した。享年51。家督は養子で弟の忠敬が継いだ。
系譜
編集父母
正室
養子
- 大岡忠敬 - 実弟