称徳朝の天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱後の論功で、弓削耳高・田部男足・秦智麻呂・内蔵若人・美努奥麻呂・秦伊波太気・津真麻呂・雀部兄子・丈部不破麻呂・建部人上・桑原足床らとともに正六位上から外従五位下に叙せられている[1]。その後も称徳朝で順調に出世し、翌天平神護元年(765年)正月には外正五位下[2]、同3年(767年)正月には従五位下に叙爵され[3]、その間に但馬員外介に任命され、その後、主税頭を兼任している。
光仁朝における動静は伝わっていない。
『続日本紀』による。
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