夜はキラキラ寺チャンネル
夜はキラキラ寺チャンネル(よるはきらきらてらちゃんねる)は、1989年10月から1991年9月まで放送されていた、文化放送のラジオ番組。
夜はキラキラ寺チャンネル | |
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放送期間 | 1989年10月-1991年9月 |
パーソナリティ | 寺島尚正 |
出演 | ナース井手 |
沿革
編集- 1989年10月 - 1990年3月『街ラジオ 夜はキラキラ 寺チャンネル』
- 1990年4月 - 1990年9月『文化放送ライオンズナイター 寺チャンネル スペシャル』
- ナイターの無い月曜 18:00 - 20:00
- 当初はナイターオフのみ放送の予定だったが1990年4月からは『文化放送ライオンズナイター』を放送していない月曜のみの放送となった。
- 1990年10月 - 1991年3月『評判ラジオ 夜はキラキラ 寺チャンネル』
- 月 - 金曜 18:00 - 20:00
- ナイターオフ番組として復活。冠タイトルを「評判ラジオ」に変更した。
- 1991年4月 - 1991年9月『文化放送ライオンズナイター 寺チャンネル スペシャル』
- ナイターの無い月曜 18:00 - 20:00
- 同時期は『寺ちゃん・ナースのマリモタイム』をRABラジオへネットしていた(月 - 金曜 21:30 - 21:40)。
- 1991年10月、寺島が平日帯 朝ワイド番組『寺島・藤井のジャストミート』を担当するため、寺島・ナースのコンビは解消。ナース井手は野村邦丸(文化放送アナウンサー(当時))とコンビを組み、『邦丸・ナースのラジオ横丁一番地』を開始。1992年のナイターオフまで続いた。
- 1993年4月、『吉田照美のやる気MANMAN!』内のコーナー「マイクサイドボクシング 俺に言わせろ」で寺島・ナースのコンビが復活。水曜日コメンテーターを務めた。
- 1993年10月、寺島とナースのコンビがナイターオフの夜に復活。『寺島・ナースの爆発120分』を開始した。番組は1994年3月に終了。ナース井手は井手えりと芸名を変えて、『やる気MANMAN!』のピンチヒッターとして、寺島とのコンビでパーソナリティを数回 務めたが井手が芸能界を引退したため、その後はコンビを組むことは無かった。
- 寺島は後年「ナース井手さんがいたから番組がはじけた。彼女(ナース)がメインで私はアシスタント」だったと当番組について振り返っている[2]。
1994年10月以降のナイターオフ番組
編集コーナー
編集1989年度
編集- 18:05〜18:40
- 寺ちゃんの噂のスクランブル
- 小宮悦子のニュースステーションヘッドライン
- 私だけが知っている
- 18:40 - だからオジサン大嫌い!
- 19:00〜19:15 - 日替わりコーナー
- ディナーくんハイ(月曜)
- 林家らぶ平の午后7時の男(火曜)
- 頑張れ残業マン(水曜)
- 街角クイズここは何処?(木曜)
- 潜入ハナキンOLゾーン(金曜)
- 19:20 - 寺ちゃんの青春グラフィティ
- 19:30 - アタックNo.1 〜寺ちゃんのくどかれたいの〜
- 19:40 - 明日貴女は -フォーチュン寺島の大予言-
1990年度
編集- 18時台
- 噂のスクランブル
- 小宮悦子のニュースステーションヘッドライン
- 19時台
- 青ちゃん参上!街角クイズ 〜御年いくつ?
脚注
編集- ^ a b c d ラジオパラダイス 1990年1月号「秋の新番組チェック」35頁。
- ^ ラジオライフ(三才ブックス)2021年7月号 p.10 - 13「寺島尚正 DJ interview」より
- ^ 『竹内靖夫の電リク・ハローパーティー』。1989年10月よりスタートした、18時・19時台の『夜はキラキラ寺チャンネル』→『邦丸・ナースのラジオ横丁一番地』→『寺島・ナースの爆発120分』枠と20時以降の主に、中高生向けナイターオフ番組枠を、1994年10月に刷新して開始した。
- ^ ラジオ新番組速報版(三才ブックス)1989年秋号・1990年秋号 各号掲載の文化放送番組表。
- ^ 【文化放送番組表】1985~89年 - ウェイバックマシン(2021年10月13日アーカイブ分)
- ^ 【文化放送 番組表】1990~94年 - ウェイバックマシン(2021年10月13日アーカイブ分)