多羅尾光雅

安土桃山時代から江戸時代初期の武将。江戸幕府旗本

多羅尾 光雅(たらお みつのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将江戸幕府旗本

 
多羅尾光雅
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治元年(1555年
死没 寛永13年1月13日1636年2月19日
改名 光久、光雅
別名 作兵衛、久八郎(通称
戒名 浄賀
墓所 大光寺(滋賀県甲賀市
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康
氏族 多羅尾氏
父母 多羅尾光俊伊勢貞孝の養女
兄弟 神山佐渡室、光当光太光雅、伊兵衛、山口光広光時
浅野長政の養女(浅野長継の娘)
光重光世
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生涯

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天正10年(1582年徳川家康伊賀越えに際して父と共にこれに協力し、自ら伊賀越えに同道して伊勢白子まで家康を警護した。その功により山城国内に所領を与えられたが、のち豊臣秀吉の命に背いた事により所領を失った。天正19年(1591年)家康から甲賀郡信楽に3500石を与えられ、のち兄光太に所領を割いた。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは筒井定次の与力として参戦。大坂の陣にはいずれも従軍した。戦後、内藤信正が入部した高槻城普請奉行花房職則らと共に務めている。

参考文献

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