夏井保四郎
夏井 保四郎(なつい やすしろう、1864年10月19日(元治元年9月19日[1])- 1933年(昭和8年)5月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(立憲政友会)、松山電気軌道・海南新聞社社長。
略歴
編集1864年(元治元年9月)、伊予国温泉郡坂本村で正岡権平の三男に生まれる。1884年(明治17年)に愛媛県師範学校を卒業し、小学校に訓導として勤める。その後、上京し明治法律学校に入学するも、和仏法律学校(現・法政大学)に転じ1889年(明治22年)に卒業する。1890年(明治23年)に代言人試験に合格し、大阪で開業する。
1896年(明治29年)に帰郷し、松山市で開業する。愛媛県会議員、議長を経て、1908年(明治41年)に第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。
また、1907年(明治40年)に清家久米一郎とともに松山電気軌道を創立し、社長を務め、ほか海南新聞社長、松山弁護士会会長などを歴任した。
1933年(昭和8年)5月4日に死去。
脚注
編集- ^ 衆議院『第二十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報号外〉、1908年、25頁。