坂元規貞
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日[1])- 1924年(大正13年)1月10日[1][2][3])は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
編集肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県[2]佐賀郡北川副村[3]新郷[1]を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる[1]。藩校弘道館で学んだ[1][2][3]。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた[1]。
1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した[1][2][3]。
1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し[1][4]、衆議院議員に1期在任した[2][3]。
その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した[1][2][3]。退職後は悠々自適の生活を送っていたが、1918年(大正7年)に養嗣子・守吉が飛行機事故で殉職後に体調を崩し、療養中の1924年1月に死去した[1][5]。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 旧肥前史談会編『佐賀県歴史人名事典』洋学堂書店、1993年。