善養院 (世田谷区)
善養院(ぜんよういん)は、東京都世田谷区新町にある寺院。曹洞宗に属し、豪徳寺の末寺として元和2年(1616年)に創建されたと伝えられる[1][3]。江戸時代と明治時代の計2回、火事で全焼したが、明治8年(1884年)に再建された[1][3][9]。本堂及び庫裏は、平成20年(2008年)に世田谷区登録有形文化財に登録された[6][7][8]。
善養院 | |
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所在地 | 東京都世田谷区新町2丁目5番12号 |
位置 | 北緯35度37分49秒 東経139度39分2.4秒 / 北緯35.63028度 東経139.650667度座標: 北緯35度37分49秒 東経139度39分2.4秒 / 北緯35.63028度 東経139.650667度 |
山号 | 家岳山[1] |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 釈迦如来像[1][2] |
創建年 | 元和2年(1616年)[1] |
開山 | 豪徳寺第2世門解蘆関大和尚[3]または明壺麟鏡和尚[2] |
開基 | 大場豊前守義陸[3]または家嶽善養庵主[2] |
中興年 | 明治8年(1875年)[3] |
中興 | 大場真成和尚[3] |
正式名 | 家岳山善養院[1] |
札所等 | 世田谷20番観世音霊場[4][5] |
文化財 | 善養院本堂並びに庫裏(世田谷区登録有形文化財)[6][7][8] |
法人番号 | 9010905000242 |
この寺院には、古狸と和尚が意地を張り合う「善養院のちんちろりん」という昔話が伝わっている[1]。
歴史
編集善養院は大山街道の南に位置する[2][4]。江戸時代後期の文政11年(1828年)に成立した地誌『新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡之条では、「本堂七間に五間[10]なり、(中略)薬師堂本堂の向にあり」と記述し、所在地については「世田ケ谷村枝郷新町村」とし、傍らに稲荷社の小祠があるとしている[2][11][12]。
明治5年(1872年)の『禅臨済宗・禅曹洞宗・禅黄檗宗本末一派寺院明帳II』及び明治10年(1877年)の『曹洞宗明細簿』によれば、元和2年(1616年)に大場豊前守義陸という人物が開基し、門解蘆関(承応3年2月13日遷化)[3]が承応2年(1653年)10月に開山した。蘆関は豪徳寺第2世であり、善養院は豪徳寺の末寺である[1][3][4]。開基と開山について、『新編武蔵風土記稿』巻之四十八、荏原郡之条では「開基ハ家嶽善養庵主トイヘリ」、「開山ハ明壺麟鏡和尚。寛永九年九月十二日寂セリ」と記述している[2]。ただし、「家嶽善養庵主」という人物のことについては「イカナル者ニヤ、ソノ詳ナルコトヲ伝ヘズ」とも記述しており、詳細は不明である[2]。
善養院は寺伝によれば、万延元年(1860年)2月と明治5年(1872年)の2回、火事で全焼した[1][4][9][11]。万延元年の火事の後、檀家の人々は寄付を募り、文久3年(1863年)に再建を果たした[4]。この時に記された『旦中勧化取立覚帳』という書類があり、当時の檀家の人々の尽力を知ることができる[4]。しかし、明治5年にまたも火事で焼失したため廃寺となった[1][4][9][13]。
明治8年(1875年)8月、当時の住職大場真成和尚が豪徳寺第27世大溪雪厳和尚の援助を受けて善養院を再建した[3][14]。善養院の本堂は、寺伝によると豪徳寺境内にあった井伊家墓参の休憩所(照心堂)を譲り受けて再建したものとされていた[1][11]。豪徳寺側の資料では、照心堂は休憩所ではなく経蔵であり、明治7年(1874年)から明治9年(1876年)の間に豪徳寺所有の不動産から書類上除去された上で、末寺の善養院に移築されたと推定されている[11][15][16]。その他に雪厳は如意輪観世音菩薩木像や誕生仏、香炉や半鐘などを寄付するなど、寺の整備に大きな役割を果たした[3]。
善養院の本堂は、昭和10年(1935年)に総工費4万2,000円をかけ、台湾ヒノキ材を使用して新築されたため、旧本堂は世田谷区桜1丁目の勝光院(曹洞宗)に移築された[1][16][17]。善養院は、世田谷20番観世音霊場とされている[4][5]。
境内と文化財
編集平成2年(1990年)竣工の山門をくぐると、本堂再建供養塔や萬霊塔が目に入る。これらの塔の奥には30体以上の地蔵菩薩像が祀られている。それぞれの地蔵像は制作された年代や姿が異なっていて、古いものは天和(1681年 - 1683年)、元禄(1688年 - 1704年)、享保(1716年 - 1735年)、宝暦(1751年 - 1763年)、安永(1772年 - 1780年)、寛政(1789年 - 1800年)などの年号が読み取れる[4]。地蔵像の脇には、イチョウの大木と釈迦堂が存在する[4]。
本堂正面には山号の「家岳山」を書した扁額が掲げられている。本堂脇には、大きな壺が置かれている。この壺は、江戸時代に使われていた「壺棺」であるという[9]。善養院の本堂と庫裏は、新興住宅地に残る数少ない第2次世界大戦前の寺院建築として貴重な作例であり、平成20年(2008年)、世田谷区登録有形文化財に登録されている[6][7][8][16]。境内墓地には、『お富さん』『別れの一本杉』などのヒット曲で知られる歌手の春日八郎の墓がある[1][18]。
善養院のちんちろりん
編集善養院には、和尚と古狸が意地を張り合う「善養院のちんちろりん」という昔話が伝わっている。
その昔、いたずら好きの古狸がいて、毎朝善養院のお供え物を盗み食いしていた。和尚は古狸のいたずらに手を焼き、ある日先手を打ってお供え物を隠してしまった。次の朝、和尚が勤行しているとどこからか「和尚さんのちんちろりん」という声が聞こえてくる。和尚は古狸の意趣返しだな、とすぐに気づき「狸のちんちろりん」と言い返した。古狸も負けずに「和尚さんのちんちろりん」と言い返し、憎まれ口の応酬が長々と続いた。夕方には、古狸の声が小さくなりやがて聞こえなくなった。和尚が様子を見に行くと、おなかがすきすぎた古狸は本堂裏で死んでいたという[1]。
交通
編集脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『改訂・せたがやの散歩道』132-133頁。
- ^ a b c d e f g 『史料に見る江戸時代の世田谷』63頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『世田谷区寺院台帳』、137-140頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』126-128頁。
- ^ a b AGCレポートvol32.2010年1月27日 (PDF) 日本山岳会山岳地理クラブ、2012年7月29日閲覧。
- ^ a b c ◇平成21年第1回定例会(平成21年1月13日(火)開催分)-◇平成21年第24回定例会(平成21年12月22日(火)開催分) (PDF) 世田谷区役所ウェブサイト、2012年7月30日閲覧。
- ^ a b c 文化 (PDF) 世田谷区役所ウェブサイト、2012年7月30日閲覧。
- ^ a b c 昭和50年からの区政等のあゆみ (PDF) 世田谷区区政概要2011、2012年8月2日閲覧。
- ^ a b c d 世田谷区 善養院 PORTAL TOKYO 東京ガイド、2012年8月2日閲覧。
- ^ 仏堂、神社本殿等の規模を示す「間」は長さの単位ではなく柱間の数を意味する。
- ^ a b c d 『世田谷区文化財報告書-20-』1頁。
- ^ 新編武蔵風土記稿 世田ヶ谷村枝郷新町村.
- ^ 『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』では、2回目の焼失を明治7年(1874年)のことと記述している。
- ^ 『せたがやの散歩道』などでは再建を明治17年(1884年)のこととしているが、ここでは『世田谷区寺院台帳』及び『世田谷区文化財調査報告書-20-』の記述に拠った。
- ^ 『史料に見る江戸時代の世田谷』38頁。
- ^ a b c 『世田谷区文化財報告書-20-』5頁。
- ^ 『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』では、本堂の新築を大正14年(1925年)から2年間の間と記述している。
- ^ 名墓録 (所在地別) 矢島俯仰ホームページ、2012年8月2日閲覧。
参考文献
編集- 「世田ヶ谷村枝郷新町村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ48荏原郡ノ10、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763982/11。
- 世田谷区教育委員会『世田谷区文化財調査報告書-20-区登録有形文化財 善養院本堂並びに庫裏 調査報告 善養院所蔵仏涅槃図について』2011年3月。ISSN 0919-6374
- 世田谷区総務部文化課文化行政係『ふるさと世田谷を語る 深沢・駒沢三-五丁目・新町・桜新町』1991年。
- 世田谷区区長室広報課『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』1995年。
- 下山照夫編『史料に見る江戸時代の世田谷』岩田書院、1994年。 ISBN 4-900697-19-2
- 世田谷区教育委員会『世田谷区寺院台帳』1984年。
外部リンク
編集- 三百年前の壷棺に出会える善養院 KAIの路地庭から、2012年7月29日閲覧。
- 善養院|世田谷区新町にある曹洞宗の寺院 猫の足あと、2012年7月29日閲覧。