商館時計
概要
編集明治時代、日本の貿易は商館とよばれる外国人商社に独占され、これらの商館が懐中時計を輸入していた。商館の注文に応じてスイスの時計工房が作成し、商館のマークと名前を入れて売った。このような懐中時計を「商館時計」という。当時、輸入された懐中時計の90パーセントを占めた商館時計は明治期を代表する時計である[1]。1890年以前の懐中時計は、実用品というよりは貴族や富裕層のアクセサリーであり、高級品に限られ数も少数であった。工業化が進み鉄道が発展した1890年以降の日本の時計市場は中級品・普及品へと変化し、懐中時計の使用は拡大した[2]。よく見られる商館時計の多くがこの時期(明治20~30年代)の輸入品である。
外装の特徴
編集数多くの商館が取り扱っていたにもかかわらず、外装はよく似通っている。
- 直径50 - 60mm、重さ100 - 150gの大型懐中時計である。片側ガラスの「オープンフェイス」と呼ばれるタイプが多い。
- ケース素材は純度0.800(コインシルバー)の銀製が多い。0.925(スターリングシルバー)や金製(特製や高級品)のものは少ない。
- 文字盤は白色エナメル(瀬戸引き)で、中心部分や秒針部分は一段くぼんでいるものが多い。繊細な書体のローマ数字が細長く書かれている。明治10年代~明治20年代初期には手書きであった。明治20年代になると、印刷の物が増える。また、現在の時計のように文字盤に銘が入っているものは稀である[注釈 1]。
- 秒針はスモールセコンドとよばれる、時針分針とは独立したものである。秒目盛りと10刻みのアラビア数字が表記される。
- 初期の物は鍵巻きである。多く存在するのは竜頭巻きで、大きなタマネギ型の竜頭を持つ。時刻合わせはサイドプッシュ式である[注釈 2]。
見せる時計
編集商館時計は実用品であったが、文明開化のステータスシンボルとしての役割も持っていた。
- まだ輸入数の少なかった明治20年ごろ、直径60㎜になる懐中時計がよく売れた。携帯に便利な小型の物もあったが、見栄えのする大型の物が好まれた。[3]
- 時針分針は装飾のある銅製で、小さな飾り石が入ったものが多い。時計に「豪華な工芸品」という印象を与えている。視認性を重視する物はブルースチールのブレゲタイプの場合もある。時期が後の物はスペードタイプが取り付けられていることもある。文字盤もアラビア数字ではなく、独特の書体のローマ数字が使われている。
- 中蓋が銀枠のガラス風防である。外蓋を開けると中の機械を見ることができる。
日本仕様
編集当時の日本人の好みや使い方を反映した仕様となっている。
- 提げ環に2か所鍔が付けてある。和装の場合チェーンではなく、組みひもで着物の帯に巻き付ける使われ方も多かったので、ひもが環や竜頭にからみ付かないようにするためである。
- 裏ぶたがフラットで魚子模様になっている。家の中では机に平置きにして使われることが多かったようである。魚子模様は手脂で指紋が付くのを防ぐためである。また、ケースの縁にも滑り止めのために、コインのようなギザが刻まれている。[4][出典無効]
- 外蓋の裏に商館名とマークが刻印されている。「レッツ商會」「ブルウル商會」などと、商館名がカタカナで記されている場合が多い。明治時代にはまだアルファベットになじみがなかったためである。このカタカナ表記は、商館時計の大きな特徴である。
商館時計の意義
編集- 明治初めまでの日本は太陰太陽暦(天保暦)は時刻は不定時であり、和時計でしか表せなかった。和時計は複雑かつ非常に高価であり、所持しているのは大名などに限られたので、一般人はほとんどは時計を見ることはなかった。明治5年にグレゴリオ暦が採用、時計が必要とされる場面が増えたため懐中時計が輸入され、日本で初めて多くの手に渡った洋式時計となった。
- グレゴリオ暦採用から、国産時計の生産までには数十年を要した。最初期国産懐中時計の一つ精工舎「タイムキーパー20型」(明治27~29年頃)は、外観や内部構造など商館時計を参考にしたと見られる特徴がある。
主な商館とマーク
編集明治時代、時計を扱っていた商館は20~30ほどが確認されている。マークの種類はその数倍にのぼる。
スイス商館
編集- 「アール.シュミット商会(Rodolphe.Schmid&Co)」シュミットは元は時計製造会社である。明治10年~23年の間はワーゲン商会が製品を扱い、明治23年~27年の間ヘロブ商会が扱った。明治28年からシュミット直営商館となり、明治42年からはナブホルツ&ヲッセンブルゲン商会が扱った。後に尚工舎(シチズン時計)の設立にも協力した。
マーク「馬上騎士印」馬の衣装に…WとF→ワーゲン商会扱い HとCo→ヘロブ商会
- 「コロン商会(J.Colomb&Co)」横浜居留地10番にあった。高品質の時計を扱うことで知られており、精工舎の前身「服部時計店」にも製品を提供していた。
マーク「交差旗印」「鶴印」「ライオン印」「六方星印」など
- 「ファブル.ブラント商会(C&J.Favre-Brandt)」親日家で日本人の妻と結婚。西郷隆盛とも家族ぐるみで親交があった。日本人時計師をスイスへ留学させたり、「時計心得帳」を出版するなど日本の時計産業育成にも尽力した。横浜外国人墓地9区に埋葬される。娘はニール・ゴードン・マンローの3番目の妻。
マーク「盾獅子印(高級品)」「星獅子印(準高級品)」「野羊・猟鳥印(普及品)」
- 「シュオーブ・フレール社」スイスのラ・ショードフォンにて製造。「タヴァン(Tavannes)」ブランドで広く知られる。日本ではJ・ウィストコウスキ商会とクーン商会が扱った。現在では「CYMA]ブランドの腕時計がよく知られている。
マーク「犬印にTRUSTY]
- 「ボーレル・クルボアジェ社(Borel&Corvoisier)」スイスのニューシャテルにて製造。E・ジャコット商会が扱っていたが、のちにシーベル商会が扱った。
マーク「盾にB&C]
ドイツ商館
編集- 「レッツ商会(F.retz&Co)」横浜居留地214番と神戸居留地82番にあった。レッツ商会は長い間繁盛したため、現存品も多い。普及品から中級品が多いが、特注品とみられる高級品も散見される。なお、清水次郎長が愛用した時計もレッツ商会のものであった。フリードリヒ・レッツは事業の傍ら横浜外人墓地の運営にもたずさわる。外国人墓地15区に埋葬される。娘はニール・ゴードン・マンローの最初の妻。
マーク「蝶に矢」「三日月にカゲロウ」「朝日印」など
- 「謙信洋行」最初は神戸に商館をもうけ、のちに横浜に移転。中国への販路拡大に力を入れていた。
マーク「鷲に盾と矢」
- 「カール・ローデ商会」時計のほかにも染料を輸入。カール・ローデは1891年にドイツ領青島へ去ったが、第1次大戦で俘虜として日本に連れ戻され、板東俘虜収容所で3年間を過ごした。ここで日本初の「第九」の演奏が俘虜たちによって行われたというエピソードがある。
マーク「飛ぶ鷲」
マーク「馬印」
- 「A.エストマン商会」保険代理店業務も行っていた。
マーク「王冠印」「ライオン印」
アメリカ商館
編集マーク「競馬印」「葡萄印」
フランス商館
編集- 「ヲロスヂーバアク商会(Orosdi-Back)」明治28年創業。日本では明治36年まで営業。現在もパリに本店がある。
マーク「三日月に鷹印」「花火印」
- 「オッペネメール商会」横浜に1875年から存在。明治20年代から時計の扱いを始めた。
マーク「騎馬武士印」
日本の商店
編集外国商館と直接取引し、小売りする時計商もいた。自分の商店のマークを入れた製品がある。
- 「吉沼時計店と服部時計店」スイス、ラ・ショードフォンの高台社製造の時計をブルウル兄弟社仲介で扱った。
マーク「月鳥印」
- 「北出作治郎商店」大阪心斎橋にあった。日の出印のボンボン時計を制作していた。商館時計には珍しく文字盤に商標が赤色で書かれている。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 小島健司『明治の時計』校倉書房、1988年。ISBN 4-7517-1830-4。
- 小島健司『ポケット・ウオッチ物語』グリーンアロー出版社、1998年。ISBN 978-4-7663-3233-9。