和賀江島(わかえじま/わかえのしま)は相模湾東部に位置する人工島和賀江嶋和賀江の築島[1]ともいう。国の史跡に指定されている(指定名称「和賀江嶋(わかえのしま)」)。

和賀江島

和賀江島と江ノ島、富士山
所在地 日本の旗 日本神奈川県
所在海域 相模湾
座標 北緯35度18分2秒 東経139度33分2秒 / 北緯35.30056度 東経139.55056度 / 35.30056; 139.55056 (和賀江島)座標: 北緯35度18分2秒 東経139度33分2秒 / 北緯35.30056度 東経139.55056度 / 35.30056; 139.55056 (和賀江島)
プロジェクト 地形
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鎌倉時代1232年貞永元年)に築かれた。歴史上はこれ以前に、日宋貿易の拠点である大輪田泊摂津国)に築かれた経が島の記録があるが、その後の地形変化により失われており、和賀江島は現存する築港遺跡として日本最古のものとなっている[2]

現在では満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまうが、干潮時にはの突端から西方に200メートルほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせる。かつては北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していた。

付近の陸地は神奈川県鎌倉市材木座にあたり、すぐ南側には逗子マリーナがある。鎌倉市と逗子市の境界に位置する。

歴史

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上空からの和賀江島

鎌倉幕府の開府以降、相模湾の交通量は増加していたが、付近の前浜では水深の浅い事からが必要であり、事故も少なくなかった。このため、1232年貞永元年)に勧進聖の往阿弥陀仏が、相模湾東岸の飯島岬の先に港湾施設を築く許可を鎌倉幕府に願い出た。執権北条泰時はこれを強く後援して泰時の家臣である尾藤景綱平盛綱諏訪盛重らが協力している。海路運ばれてきた相模国西部や伊豆国の石を用いて工事は順調に進み、同年8月3日7月15日)に着工して8月26日8月9日)には竣工した[3]。なお、発起人の往阿弥陀仏は筑前国葦屋津の新宮浜でも築島を行なっていた土木技術の専門家である。1254年5月17日建長6年4月29日)には問注所政所それぞれの執事宛に唐船は5艘以下にするよう通達があり[4]南宋などから船が来港していた可能性がある。

鎌倉時代の半ば以降に忍性極楽寺長老となってからは、和賀江島の敷地の所有および維持・管理の権利と、その関所を出入りする商船から升米とよばれる関米を徴収する権利が極楽寺に与えられていた[5]1307年7月18日徳治2年6月18日)には関米を巡る問題で訴訟を起こした記録があり[6]、管理の一端がうかがえる。

江戸時代には和賀江島は「石蔵」や「舟入石蔵」と呼ばれ、付近の材木座村や小坪村(現・逗子市)の漁船などの係留場として使われていた。1750年寛延3年)頃、小坪村が島の西南方に新たな出入口を切開き、被害を受けた坂之下村や材木座村との間で1764年明和元年)に相論が起きた。翌年、出入口の幅を9とし、3月から9月まで7ヵ月間は口を塞ぎ、残りの10月から2月までの5ヵ月に使用するという条件で和解したという[7][8]

また鶴岡八幡宮の修復工事の際には材木や石を運ぶ船が停泊しており、少なくとも1696年元禄9年)から翌年と1781年天明元年)には八幡宮とともに島の修復工事も実施された。1826年文政9年)の八幡宮修理に際しては、満潮時には1m以上海中に隠れるようになってしまっているとして材木座村が島の修復を願い出ている[9]

史跡沿革

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脚注

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  1. ^ 『東関紀行』
  2. ^ 逗子市立図書館報「郷土マーメイド」24号「和賀江島」
  3. ^ 吾妻鏡』第28巻
  4. ^ 吾妻鏡』第44巻、ただし保有数の制限の通達のみで、場所の記述はない。
  5. ^ 1349年2月28日貞和5年2月11日)、足利尊氏書状写
  6. ^ 『鎌倉幕府問注所執事太田時連・明石行宗連署奉書案』
  7. ^ 1764年明和元年)、『和賀江島一件材木座村返答書控』
  8. ^ 1765年(明和2年)、『和賀江島一件済口証文』
  9. ^ 1826年文政9年)、『和賀江島修復願』
  10. ^ 同日、文部省告示第298号
  11. ^ 同日、文部科学省告示第10号

参考文献

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  • 日本歴史地名大系(オンライン版)小学館(『日本歴史地名大系』平凡社、1979年(昭和54年) - 2002年(平成14年)を基にしたデータベース)

関連文献

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  • 河井恒久 等編 編「巻之七 和賀江島」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、130頁。NDLJP:952770/80 

関連項目

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外部リンク

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