向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)は、陸奥国福島県大沼郡会津美里町)にあった日本の城(日本最大級の山城)。城跡は国の史跡に指定されている。

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向羽黒山城
福島県
阿賀川対岸から望む向羽黒山城跡
阿賀川対岸から望む向羽黒山城跡
別名 岩崎城、巌館
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 蘆名盛氏
築城年 永禄11年(1568年
主な改修者 蘆名氏上杉氏蒲生氏
主な城主 蘆名氏上杉氏蒲生氏
廃城年 慶長6年(1601年
遺構 曲輪土塁石垣
指定文化財 国の史跡
位置 北緯37度26分43.4秒 東経139度54分0.0秒 / 北緯37.445389度 東経139.900000度 / 37.445389; 139.900000座標: 北緯37度26分43.4秒 東経139度54分0.0秒 / 北緯37.445389度 東経139.900000度 / 37.445389; 139.900000
地図
向羽黒山城の位置(福島県内)
向羽黒山城
向羽黒山城
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概要

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白鳳三山最高峰岩崎山は向羽黒山とも称し、そこに蘆名盛氏永禄11年(1568年)に山城を築いた。城の規模は、東西1.4キロメートルで南北1.5キロメートル、面積は50ヘクタール[1]。東を流れる阿賀川や東部分の崖などの天然の要害に加えて土塁や堀などの防御施設がいたるところに造営されている。

岩崎山山頂の本丸(実城)跡を中心に現在公園となっている二の丸跡、三の丸跡、伝盛氏屋敷跡などの郭をはじめ、竪堀や空堀、虎口、石塁の跡などの戦国山城の名残が城跡内各所に残されている。城の東側直下を阿賀川が流れており、さらには会津盆地一円を望むことができる。

歴史

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永禄4年(1561年)に蘆名盛氏によって築城が開始。

永禄11年(1568年)に完成し、隠居していた盛氏は死ぬまでここに住んで蘆名氏の政務を見た[2]

天正17年(1589年)、蘆名氏摺上原の戦い伊達政宗に敗れて滅亡するも城は存続し、会津領主となった政宗や蒲生氏郷上杉景勝も詰の城として使用していた。上杉氏は慶長3年(1598年)から翌年にかけて籠城戦用に、朝鮮半島熊川倭城を参考に改修[1][3]

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いで上杉氏の従う西軍は敗北し、上杉氏も所領を転封されることに伴い、廃城となった[1]

平成13年(2001年)、国の史跡に指定された。

平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(111番)に選定された。

脚注

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  1. ^ a b c 石田明夫「神指城と幻の白河合戦」、花ヶ前盛明監修『直江兼続の新研究』宮帯出版社、2009年、68頁
  2. ^ 垣内、2017年、P182
  3. ^ ただし、上杉景勝改修説を唱える石田明夫に対して、蘆名氏末期(亀若丸義広期)改修を唱える市村高男垣内和孝蒲生氏郷改修説を唱える西ヶ谷恭弘広長弘典などもいる(垣内、2017年、P185・193-194)

参考文献

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  • 垣内和孝「向羽黒山城と蘆名氏」『伊達政宗と南奥の戦国時代』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-02938-4 P182-201

関連項目

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外部リンク

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