吉田貫三郎
昭和時代前期の挿絵画家
生涯
編集兵庫県明石市出身[1]。1928年(昭和3年)に神戸商業学校を卒業し、一時は電気会社の会計などをしていたが、在学中から凝っていた漫画の投稿に力を入れ、漫画雑誌『月刊マンガ・マン』で入選したのをきっかけに、1929年(昭和4年)に上京[1]。同年、同誌の版元である東京漫画新聞社に入社する[1][2]。1932年(昭和7年)から横山隆一、近藤日出造、矢崎茂四を中心とする新漫画派集団に加わり[1]、当初は漫画家として活動していた。1933年(昭和8年)頃より『新青年』などで小説の挿絵を描くようになり[1]、怪奇推理小説から現代小説、時代小説の挿絵まで幅ひろく手がけた[1]。1945年(昭和20年)に中国の広東で戦病死[1]。37歳。
画風・評価
編集文芸評論家の磯貝勝太郎には「明朗で健全そのものの画風を特徴とした。黒白芸術をよく理解し、駆使しうる代表として定評があった」と評された[3]。漫画から挿絵へと活動場所を変えても満足できず、1941年(昭和16年)頃から本画を志し、春陽会展にも出品している。
挿絵作品
編集装幀
編集著作
編集- 随筆集『蟹の爪』(1943年、地平社)