吉田村 (宮城県亘理郡)
日本の宮城県亘理郡にあった村
吉田村(よしだむら)は、昭和30年(1955年)まで宮城県亘理郡の中央部にあった村。現在の亘理郡亘理町吉田・長瀞地区にあたる。
よしだむら 吉田村 | |
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廃止日 | 1955年2月1日 |
廃止理由 |
新設合併 吉田村、亘理町、荒浜町、逢隈村 → 亘理町 |
現在の自治体 | 亘理町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 東北地方 |
都道府県 | 宮城県 |
郡 | 亘理郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 24.66 km2. |
総人口 |
6,554人 (『亘理町史』下巻、1955年1月31日) |
隣接自治体 |
亘理郡:亘理町、荒浜町、逢隈村、山下村 伊具郡:角田町 |
吉田村役場 | |
所在地 | 宮城県亘理郡吉田村吉田字宮前91-2 |
座標 | 北緯38度00分52秒 東経140度51分36秒 / 北緯38.0145度 東経140.86006度座標: 北緯38度00分52秒 東経140度51分36秒 / 北緯38.0145度 東経140.86006度 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集歴史
編集吉田村域では縄文時代の西囲・鹿野・平場・一ノ坂の各遺跡や畑中貝塚が発見されているほか、吉田村役場および吉田小学校北側の丘には弥生時代から平安時代に至るまでの集落跡である宮前遺跡があり、その北方の長瀞には長井戸古墳群、常磐線線路下の浜堤には大塚古墳が築かれるなど、かなり早い時期から居住地として用いられていた痕跡が残されている。
沿革
編集行政
編集首長
編集- 歴代村長
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
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1 | 真柳善四郎 | 明治22年(1889年)4月23日 | 明治30年(1897年)4月24日 | |
2 | 安田忠平 | 明治30年(1897年)4月25日 | 明治34年(1901年)4月23日 | |
3 | 加藤久吉 | 明治34年(1901年)6月22日 | 明治35年(1902年)4月4日 | |
4 | 真柳善四郎 | 明治35年(1902年)4月22日 | 明治36年(1903年)8月20日 | 再任 |
5 | 安田忠平 | 明治36年(1903年)11月30日 | 明治40年(1907年)8月31日 | 再任 |
6 | 佐伯勇三郎 | 明治40年(1907年)10月12日 | 大正8年(1919年)10月11日 | |
7 | 小野勇七 | 大正8年(1919年)11月13日 | 大正12年(1923年)11月12日 | |
8 | 鈴木吉太郎 | 大正12年(1923年)12月4日 | 昭和10年(1935年)12月3日 | |
9 | 横山英三郎 | 昭和10年(1935年)12月7日 | 昭和18年(1943年)12月6日 | |
10 | 小野脩平 | 昭和18年(1943年)12月8日 | 昭和21年(1946年)11月15日 | |
11 | 土生利助 | 昭和22年(1947年)4月6日 | 昭和30年(1955年)1月31日 |
地域
編集人口
編集1920年 | 3,621人 | |
1925年 | 4,090人 | |
1930年 | 4,423人 | |
1935年 | 4,671人 | |
1940年 | 4,738人 | |
1947年 | 6,255人 | |
1950年 | 6,451人 |
※国勢調査による
教育
編集- 吉田村立吉田小学校
- 吉田村立長瀞小学校
- 吉田村立吉田中学校
交通
編集鉄道
編集道路
編集参考文献
編集- 『亘理町史』(宮城県亘理郡亘理町)
- 上巻(1975年)
- 下巻(1977年)
- 『宮前遺跡 -亘理町における古代遺跡の発掘概要-』〔宮城県文化財調査報告書第38集〕(宮城県教育委員会、1975年)