吉岡英一
日本の大蔵官僚
吉岡英一(よしおか えいいち、1915年7月13日 - 1999年8月22日)は、日本の大蔵官僚。経済企画庁長官官房長、理財局長、国税庁長官、中小企業金融公庫総裁、日本開発銀行総裁などを務めた。
来歴
編集台湾出身[1]。旧制台北高等学校卒業。1937年10月、高等試験行政科合格[2]。東京帝国大学法学部政治学科卒業。1938年、大蔵省入省。主税局属[2]。主計局第四課長、主計官、大臣官房秘書課長、為替局企画課長、大臣官房財務調査官(大臣官房担当)、理財局総務課長、主計局総務課長と、課長時代は1官房、3課を横断していた。主計局次長(次席)、大臣官房財務調査官(理財局証券担当)などを経て、1961年6月16日 理財局次長。1962年5月15日 経済企画庁長官官房長。1963年4月22日 理財局長。1965年2月5日 国税庁長官。同年11月16日 退官。同年11月17日 日本住宅公団副総裁(総務、人事、経理、計画、管理および建築担当)(〜1970年)[3][4]。1970年12月23日 中小企業金融公庫総裁(〜1974年12月23日)。1975年4月20日 日本開発銀行総裁(〜1979年4月20日)。1985年9月1日 新技術開発事業団非常勤理事。1999年8月22日 急性じん不全で死去[1]。
職歴
編集- 1938年4月:大蔵省入省。主税局属。
- 1938年6月:財務書記・北京駐在。
- 1941年2月:為替局。
- 1941年10月:企画院総裁秘書官・鈴木国務大臣付。
- 1943年11月:理財局。
- 1945年5月:金融局。
- 1946年2月:理財局。
- 1946年6月:主計局(文部、厚生係)。
- 1946年11月:主計局(文部、厚生係) 兼 経済安定本部第四部。
- 1947年5月:主計局(文部、厚生係)。
- 1947年7月2日:主計局第一部第四課長(文部、厚生担当)。
- 1948年7月5日:主計局主計官(運輸、郵政担当)。
- 1949年12月1日:大臣官房秘書課長。
- 1953年9月1日:為替局企画課長。
- 1954年5月15日:大臣官房財務調査官(大臣官房担当)。
- 1954年7月23日:理財局総務課長。
- 1955年8月10日:主計局総務課長。
- 1956年7月6日:大臣官房財務調査官(大臣官房調査課担当)。
- 1957年6月11日:東京税関長。
- 1958年7月18日:大臣官房財務調査官(為替局担当)。
- 1959年8月1日:主計局次長(次席)(文部担当)[5]。
- 1960年6月24日:大臣官房財務調査官(理財局証券担当)。
- 1961年6月16日:理財局次長。
- 1962年5月15日:経済企画庁長官官房長。
- 1963年4月22日:理財局長。
- 1965年2月5日:国税庁長官。
- 1965年11月16日:退官。
脚注
編集その他の役職 | ||
---|---|---|
先代 石原周夫 |
日本開発銀行総裁 1975年 - 1979年 |
次代 渡辺孝友 |
先代 佐久洋 |
中小企業金融公庫総裁 1970年 - 1974年 |
次代 渡辺佳英 |
官職 | ||
先代 木村秀弘 |
国税庁長官 1965年 |
次代 泉美之松 |
先代 稲益繁 |
大蔵省理財局長 1963年 - 1965年 |
次代 佐竹浩 |
先代 村上一 |
経済企画庁長官官房長 1962年 - 1963年 |
次代 村上孝太郎 |
先代 吉田信邦 |
大蔵省理財局次長 1961年 - 1962年 |
次代 高橋俊英 |
先代 加治木俊道 |
大蔵省大臣官房財務調査官(理財局証券担当) 1960年 - 1961年 |
次代 坂野常和 |
先代 佐藤一郎 |
大蔵省主計局次長(次席) 1959年 - 1960年 |
次代 谷村裕 |
先代 尾崎英二 |
大蔵省大臣官房財務調査官(為替局担当) 1958年 - 1959年 |
次代 渡辺誠 |
先代 木村秀弘 |
東京税関長 1957年 - 1958年 |
次代 高橋俊英 |
先代 村上一 |
大蔵省大臣官房財務調査官(大臣官房調査課担当) 1956年 - 1957年 |
次代 谷村裕 |
先代 佐藤一郎 |
大蔵省主計局総務課長 1955年 - 1956年 |
次代 宮川新一郎(事務取扱) |
先代 酒井俊彦(事務取扱) |
大蔵省理財局総務課長 1954年 - 1955年 |
次代 高橋俊英 |
先代 森永貞一郎 |
大蔵省大臣官房秘書課長 1949年 - 1955年 |
次代 泉美之松 |