合田福太郎
合田 福太郎(ごうだ ふくたろう、1860年6月23日(万延元年5月5日[1])‐ 1921年(大正10年)5月29日[1][2][3][4]) は、明治から大正期の日本の政治家。衆議院議員、愛媛県宇摩郡土居村長。
経歴
編集伊予国宇摩郡、のちの愛媛県[3]宇摩郡土居村[1][2][4](土居町[2]を経て現四国中央市) で、精米・瓦製造業、会田基次郎の長男として生まれた[2]。小学校卒業後、尾崎山人(星山)の松菊舎に入り漢学を修めた[1][2]。1882年(明治15年)愛媛県師範学校高等師範科を卒業した[2][3][4]。
郷里の小学校で訓導兼校長を務めた[1][2][3][4]。1889年(明治22年)町村制の施行に伴い土居村が発足すると初代村長に就任した[2]。1891年(明治24年)11月、愛媛県会議員に選出され[1][2]1898年(明治31年)まで在任[2]。同年3月、第5回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区)で当選[1][2][5]。1899年(明治32年)9月、県会議員に再選され、郷里関川の大水害被害の県費復旧に尽力した[2]。1902年(明治35年)8月の第7回総選挙(愛媛県郡部)で再選され[2][6]、以後、第9回総選挙まで2回再選され、衆議院議員に通算4期在任した[3][4]。
その後、政界を引退し故郷で隠居生活を送っていたが、1918年(大正7年)村民からの要請を受けて土居村長に再度就任した[1][2]。
国政選挙歴
編集- 第4回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区、1894年9月、立憲改進党)落選[5]
- 第5回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区、1898年3月、准進歩党)当選[1][5]
- 第7回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1902年8月、憲政本党)当選[1][6]
- 第8回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1903年3月、憲政本党)当選[1][6]
- 第9回衆議院議員総選挙(愛媛県郡部、1904年3月、憲政本党)当選[1][6]