古市 胤子(ふるいち たねこ、天正11年(1583年) - 万治元年6月27日1658年7月27日))は、江戸時代初期の女官。本姓は清原氏幼名はおちやちや。従三位[1]

古市 胤子
三位局
続柄 足利義尋正室 → 後陽成天皇妃

出生 1583年天正11年)
死去 (1658-07-27) 1658年7月27日(75歳没)
埋葬 実相院(證光寺)
配偶者 足利義尋
  後陽成天皇
子女
  • 実相院義尊
  • 円満院常尊
  • 空華院宮(後陽成天皇第九皇女、夭逝)
  • 道晃法親王(後陽成天皇第11皇子)
  • 冷雲院宮(後陽成天皇第十皇女、夭逝)
家名 古市氏
父親 古市胤栄(古市澄胤孫)
母親 桂光院(近衛前久子女)
栄典 従三位
役職 後宮典侍
宗教 天台宗
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人物

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父は大和国の武将駒崎城主播磨守古市胤栄(古市澄胤の兄である胤栄とは同名の別人)で、母は関白近衛前久の娘桂光院(渓江院)殿。初め、室町幕府15代将軍義昭の子義尋(高山、義広)に嫁し、以下二子を儲けた[1][2][3]

義尋が慶長10年(1605年)に没した後は、母方の親戚である後陽成天皇女御近衛前子の縁で宮中に出仕し、茶々局、三位局の女房名で呼ばれた。その後、後陽成天皇の召人となり、以下三子を儲けた[1][3]

後陽成院の晩年まで傍に仕えており、院が危篤の際には、見舞いにきた後水尾天皇との面会を取り次ぎ、これが院と天皇との最後の対面となった[1]

寛永15年(1638年)には実相院のある岩倉に閑居し、宮中を退いた[2][3]。その後も宮中の人々とは良好な関係を築いており、正保2年(1645年)5月7日には、文智女王に同行して岩倉の円通寺を創建した圓光院殿瑞雲文英尼大師とともに近江国永源寺一糸文守を訪ねている。文智女王に同行した翌年、岩倉の地に日蓮宗の證光寺を創建した。

1650年慶安3年)から1651年(慶安4年)にかけて、加賀藩前田利常に仕えていた姪孫古市胤重が、休暇で京都に来ており、胤子の元にしばらく滞在していた[4][5]

卒年は76歳。法号を法誓院妙弘日證大姉という[1]

系譜

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天武天皇-舎人親王-御原王-小倉王-清原夏野-海雄-房則-業恒-広澄・・・・・古市胤晃-胤條-胤尋-胤尊-重胤-隆胤-藤勝-古市澄胤-胤慶-胤栄-古市胤子

詳細は古市氏系図を参照

脚注

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  1. ^ a b c d e 『大日本女性人名辞書 訂』、1942年、635頁
  2. ^ a b 『唐木順三全集 第15巻 [増補版]』、1982年、107頁
  3. ^ a b c 『禅文化 (102)』、1981年、136頁
  4. ^ 『三壷聞書22巻』、石川県図書館協会、1931年、299頁
  5. ^ 『加賀藩史料 第3編 (寛永十八年~寛文二年)]』、清文堂出版、1980年、326-327頁

参考文献

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  • 法圓山證光寺記
  • 昭和37年(1962年)8月20日発行、大人名事典第5・6巻
  • 平成17年(2005年)11月15日発行、後陽成天皇実録第2巻
  • 平成27年(2015年)1月18日発行、古市氏系図続
  • 平成27年(2015年)2月8日発行、西坊家口伝集続々

外部リンク

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