古内義如
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古内 義如(ふるうち よしゆき、寛永8年〈1631年〉 - 寛文13年6月12日〈1673年7月25日〉)は、江戸時代前期の仙台藩伊達家の家臣。仙台藩奉行。通称は志摩。家格は着座。
生涯
編集寛永8年(1631年)、岩沼古内家の別家で、岩沼古内家の祖古内実綱の次男古内義実の子として生まれる。
承応元年(1652年)に父の古内義実、明暦元年(1655年)には母が亡くなり、慈眼寺を建立して菩提を弔う。
万治3年(1660年)に評定役、寛文6年(1666年)には奉行に昇進し、禄3283石となる。
寛文9年(1669年)に弟の古内義連に分知して別家とし、横沢庸範にも分知する。
寛文11年(1671年)3月、大老酒井忠清の屋敷で、伊達宗重(安芸)と伊達宗倫(式部)の所領紛争の裁判を行っている時に刀傷事件(寛文事件・伊達騒動)が発生した。古内義如も国老証人として召集されていたが、運よく席をはずしていて難をまぬがれた。その後、宇和島藩邸に留め置かれたが、帰参許可が得られ、仙台藩へは10月に帰国した。
その後、病を患い、寛文13年(1673年)6月12日、病にて没した。享年43。
墓所は仙台市の慈眼寺。戒名は涼樹院殿前州刺史一源曹性居士。