南豫州(なんよしゅう)は、中国にかつて存在した南北朝時代から初にかけて、現在の安徽省南部に設置された。

概要

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422年永初3年)、南朝宋により淮東に南豫州が立てられた。州治は歴陽に置かれた。430年元嘉7年)、南豫州は豫州に併合された。439年(元嘉16年)、豫州から南豫州が分離された。445年(元嘉22年)、また南豫州は豫州に併合された。459年大明3年)、また豫州から南豫州が分離された。461年(大明5年)、揚州淮南郡宣城郡が分離されて、南豫州に併合された。466年泰始2年)にまた南豫州は豫州に併合され、淮南郡と宣城郡は揚州にもどされた。まもなくまた豫州から南豫州が分離された。467年(泰始3年)、南豫州は豫州に併合された。468年(泰始4年)、揚州の淮南郡と宣城郡が分離されて南豫州が立てられ、宣城に州治が置かれた。469年(泰始5年)、南豫州は廃止された。471年(泰始7年)、豫州の歴陽郡淮陰郡南譙郡南兗州臨江郡が分離されて南豫州が立てられた。472年泰豫元年)、南汝陰郡が豫州に転属し、豫州の廬江郡が南豫州に転属した。南豫州は歴陽郡・南譙郡・廬江郡・南汝陰郡・南梁郡晋熙郡弋陽郡安豊郡汝南郡新蔡郡陳郡南頓郡潁川郡西汝陰郡汝陽郡陳留郡南陳左郡辺城左郡光城左郡の19郡を管轄した[1]

南朝斉のとき、南豫州は淮南郡・宣城郡・歴陽郡・南譙郡・廬江郡・臨江郡の6郡を管轄した[2]

526年普通7年)、南朝梁により合肥に南豫州が置かれた。547年太清元年)、合肥の南豫州は合州と改められ、寿春に南豫州が置かれた[3]

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、南豫州は宣州と改められた。607年大業3年)、宣州は宣城郡と改称された[4]

620年武徳3年)、杜伏威を降伏させると、当塗県に南豫州が置かれた。625年(武徳8年)、南豫州は廃止され、宣州に編入された[5]

脚注

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  1. ^ 宋書』州郡志二
  2. ^ 南斉書』州郡志上
  3. ^ 梁書』武帝紀下
  4. ^ 隋書』地理志下
  5. ^ 旧唐書』地理志三