南投庁

日本統治下台湾の行政区画
南投庁
大日本帝国台湾の庁

1901年 - 1920年
南投庁の位置
南投庁の位置
1915年当時の行政区画
政庁所在地 南投
歴史
 - 創立 1901年
 - 廃止 1920年
行政区画 3支庁→4支庁→5支庁
現在 南投県
南投庁舎
埔里社支庁舎

南投庁(なんとうちょう)は、日本統治時代の台湾の地方行政区分のひとつ。

歴史

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沿革

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  • 1901年(明治34年)11月 - 廃県置庁により三県四庁から二十庁に改められた際に台中県の一部から成立。庁舎は南投街に置かれた。埔里社、草鞋墩、集集の3つの支庁を管轄した。
  • 1909年(明治42年)10月 - 斗六庁林圯埔支庁を編入する。
  • 1914年(大正3年)4月 - 霧社支庁が新設され蕃地を管轄する[1]
  • 1920年(大正9年)10月 - 五州二庁制度の施行に伴い台中庁と合併し台中州となり、草鞋墩支庁は南投郡、集集支庁は新高郡、埔里社支庁と霧社支庁は能高郡、林圯埔支庁は竹山郡となる。

行政

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歴代庁長

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脚注

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  1. ^ “南投廳令第四號 支廳名稱位置ヘ追加”. 南投廳報. (1914年3月31日)