千坂高信
江戸時代の武士
千坂 高信(ちさか たかのぶ)は江戸時代の武士。上杉氏の重臣。養父千坂景親を引き継ぎ、江戸家老を長く務める。
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 永禄7年(1564年) |
死没 | 寛永14年12月12日(1638年1月26日) |
戒名 | 浄徳院殿松景日瑛居士 |
官位 | 伊豆守→安芸守 |
主君 | 景勝→定勝 |
藩 | 出羽米沢藩 江戸家老 |
氏族 | 千坂氏 |
父母 | 養父:千坂景親 |
妻 | 織田信長臣 沼與十郎娘 |
子 | 千坂高治、僧正覚(江戸芝承教寺) |
経歴
編集はじめは越後国中蒲原郡満願寺村(現在の新潟市秋葉区満願寺に住したことから満願寺仙右衛門と称していた。文禄4年(1595年)千坂景親が伏見御留守居職の折、菜地300石賜り、景親に附す。その後、所司代職を命じられ加秩賜り500石。
慶長7年(1602年)2月直江兼続の呼びかけで亀岡文殊堂にて行われた詩歌会亀岡百首に参加[1]。
慶長8年(1603年)江戸に召され桜田官邸将を命じられ、以後は江戸で仕える。
慶長11年(1606年)4月、千坂景親が死去。上杉景勝の命により満願寺仙右衛門が千坂景親の家督を相続し、千坂伊豆と改め、職分は景親と同じとなる(江戸家老)。
寛永3年(1626年)正月加秩千石総計3000石を賜る。
寛永9年(1632年)5月19日退役。
寛永11年(1634年)6月将軍徳川家光上洛の際、上杉定勝の供奉に随行。
「上杉家御年譜3」に掲載されている上杉景勝自筆遺言状(現物写真が掲載)には千坂高信に申し付けておくようにと記されている。
「一、ここもと中過則高野山へ出家為登あれにて七日ノとむらいの事 一、奥院ニ四十九浣の事 是は伊豆(千坂高信)ニも可申候 一、ふうきいん(寶亀院)へ両人よくよく可申届候より 以上」[3][4]
脚注
編集- ^ 高畠町観光協会作成『亀岡百首』パネル展資料
- ^ 『上杉家御年譜23「御家中諸士略系譜(1)」P276』
- ^ 『上杉家御年譜3』巻頭写真「景勝公自筆遺言状 上杉家蔵」
- ^ 『「東国の雄」上杉景勝』今福 匤 ㈱KADOK AWA 2021.7.10 P327 口語訳「忌明けとなったら、出家を高野山へ遣わし、七日間の弔いをすること、奥之院ならびに四十九院に関して江戸の千坂伊豆にも知らせておくこと。寶亀院へは法音寺・極楽寺より申し届けておくように。」
出典
編集- 『上杉家御年譜23「御家中諸士略系譜(1)」』(経歴)
- 『上杉家御年譜3』(上杉景勝自筆遺言状)