十時連貞

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

十時 連貞(ととき つれさだ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将立花氏の家臣。柳川藩家老。立花四天王の一人。

 
十時連貞
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治3年(1556年
死没 寛永21年9月14日1644年10月14日
改名 摂津守連貞→孫右衛門→雪斎(号)
別名 十時摂津守(二代目)
墓所 福岡県柳川市の西方寺
官位 摂津
主君 立花道雪立花宗茂
陸奥棚倉藩、筑後柳川藩家老
氏族 豊後大神氏十時氏
父母 父:十時惟次、母:立花和泉入道道雲女[1]
兄弟 惟則連貞
城戸知正
立花惟与成重惟昌因幡正良
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生涯

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弘治3年(1556年)、豊後国戦国大名大友氏の重臣・戸次鑑連(後の立花道雪)の家臣である十時惟次の次男として誕生。

連貞の生家は戸次氏重臣・十時氏の分流で、十時氏初代の惟信(長門守)の四男にあたる孫右衛門惟通の子孫の家である。休松の戦いで戦死した十時惟忠は本家筋ではとこにあたる。

父と同じく道雪に仕え、道雪(鑑連)からの「連」の偏諱を受け連貞を名乗った。永禄12年(1569年)に父と兄・惟則多々良浜の戦いにおいて戦死すると家督を継ぎ、筑前国那珂郡板付村(現在の福岡市博多区板付)のうち30町歩の所領を相続した。

その性格は「沈勇にして剛直也」と伝わる[2][3]。最初は道雪の娘・立花誾千代の守役として任じられた[4]

戦闘に参加すること数十回[注釈 1]、戦功を挙げて感状を受けることも多くという[3]

天正9年(1581年)、嗣子の無かった道雪が高橋紹運の長男・立花宗茂養子に迎えると、道雪の命で宗茂付の家臣となった。

天正15年(1587年)に豊臣秀吉九州征伐が始まると、前年の島津氏による筑前侵攻で捕らえられていた宗茂の生母・宋雲院と弟の高橋統増(立花直次)を救出するという功績を立てた[3][40]

九州征伐後に宗茂が秀吉から筑後柳河(柳川)13万石の領主に封じられると、宗茂から筑後山門郡内で33町歩の所領を与えられた。天正19年(1591年)5月には家老に任命される。天正20年(1592年)から始まった朝鮮出兵では宗茂と共に渡海、文禄5年(1596年)4月に1300石に加増され、慶長3年(1598年)には200石をさらに加増された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に与して東軍方京極高次大津城を攻撃(大津城の戦い)、9月12日に宗茂は城方の夜襲を予見し、連貞が敵将の丸毛萬五郎・箕浦備後・三田村安右衛門三人を捕縛した[41]。10月20日鍋島直茂鍋島勝茂が柳川に攻め来る、江上八院の戦いにも参戦した[42]

西軍の敗北により、宗茂は戦後改易されて浪人となった。しかし連貞はあくまで宗茂を主君として従い、宗茂と共に肥後熊本の加藤清正食客となった。

慶長8年(1603年)冬には加藤家を辞去し、宗茂と共に江戸に出た。しかし生活費などに貧窮したため、連貞は主君の生活費を稼ぐために由布惟信ら他の家臣たちと共に虚無僧になって米銭を稼いだといわれる。まもなく宗茂が徳川家康に請われて家臣となり、陸奥棚倉藩1万石の藩主として復帰すると、宗茂より長年の忠義を評価されて200石を与えられた。

後に宗茂が柳河に復帰を許されると、連貞は老齢を理由に隠居を申し出、三男の十時惟昌(三弥助惟保)が家督相続。このとき、宗茂より隠居料として1000石を与えられた。寛永14年(1637年)の島原の乱では高齢の宗茂と共に出陣している[43]

寛永21年(1644年)9月14日、死去した。十時の家系は柳川藩組頭家兼家老家を初めとして多くが藩士として幕末まで続いた。

エピソード

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  • 陪臣の身であるにもかかわらず、その忠勇は諸大名に知られていた。慶長19年(1614年)の大坂の陣では豊臣氏から高禄をもって誘われたが、宗茂への忠義を選んで拒絶している[3]
  • 江戸で日銭を稼ぐ為に虚無僧に扮して托鉢している時、町外れで3人の暴漢に襲われた。連貞は、ここで戦えば宗茂に迷惑がかかると考えて逃げたが、暴漢は執拗に追跡した。そのためにやむなく応戦して、連貞は尺八で暴漢の刀を受け止めたうえ、その刀を奪い取って3人を斬り殺した。後にこれが問題となって役人に捕らえられ、正直に事の次第を役人に話した。虚無僧の正体が、今は浪人の身分とはいえ、かつての大名、立花宗茂の重臣だった為、聴取をした役人が処遇に苦慮する。話は次々と上役に話が上がっていき、ついに江戸幕府老中土井利勝の耳に入る事になる。利勝は、無罪放免との沙汰を出し解き放った(この直後に宗茂が書院番頭・棚倉藩主として復帰していることから、宗茂を評価していた家康の意があったものと推測される)[44][45]

脚注

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注釈

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  1. ^ 天正6年(1578年)12月11日 - 13日宝満・立花城・宇美・障子嶽の戦い[5]、天正7年(1579年)4月27日第一次吉川の戦い・毛利鎮実鷹取城救援[6][7][8]、7月12日-18日第二次生松原の戦い・第一次鳥飼の戦い[9][10][11]、9月11日池田城・第三次荒平城攻防戦[12][13][14][15][16]、天正8年(1580年)2月2日早良郡龍造寺方一揆討伐[17][18]、10月中旬第二次嘉麻・穂波の戦い・石垣山の戦い・第一次八木山石坂の戦いで敵大将・井田親氏と一騎打ちをして、彼の首を討ち取った[19][20][21][22][23][3]、天正12年(1584年)祇園原の戦い[24]、天正13年(1585年)3月立花山城防衛戦[25][26][27][28]、天正14年(1586年)8月高鳥居城、岩屋城、宝満城攻略戦[29][30][3]、天正15年(1587年)9月~12月肥後国人一揆討伐[31][32][33][34]、天正16年(1588年)5月27日柳川城黒門の戦いなど[35][36][37][38][39]

出典

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  1. ^ 『筑後國史・筑後将士軍談』卷之第三十 系譜小傳 第二 立花家臣系譜 P.29
  2. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一〇) 十時連貞小傳 P.243頁
  3. ^ a b c d e f 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)十時攝津 865頁
  4. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)74 十時(正道)家文書 一一八 十時家由緒書 先祖十時摂津守連貞、良清(誾千代)様御守役被仰付、元亀三年八月ヨリ御成長迄御守相勤、(後略) P.721。
    一一九 願書 道雪様御一子良清大姉者、永禄拾二己巳年八月十一日筑後国於問本村御誕生被遊、吟千代様与奉申候、御誕生早速城戸主水知正御守被仰付候、然處ニ元亀三壬申年八月十五日亀菊丸(安武方清茂庵。宝樹院様と安武阿波守殿御子)御家御連子御両人亀菊丸殿・於吉姬、於吉姬者、米多比丹波鎮久ニ嫁、箱崎之座主麟清法印御弟子ニ被進候ニ付、主水被成親分ニ御副被遣候、依之家柄之儀ニ茂御座候間、御守跡役十時摂津守連貞江被仰付、元亀三年八月ヨリ御成長迄御守相勤候、其後段々御取立被成、御家老職迄被仰付後、(後略) P.722。
  5. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第三分冊 十時 戸次道雪感状写 天正六年十二月十一日宇美表打廻候砌、別而最前被砕手被疵候、殊更被官分捕感悦候、必追而一稜可賀之候、恐々謹言、十二月十一日 十時摂津守(連貞)殿 P.181~182
  6. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・「旧柳川藩誌」十時文書 二 戸次道雪感状写 今度於吉川、最前被碎手、被疵候、高名案中候、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、四月廿七日 十時摂津守(連貞)殿 P.415
  7. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  8. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 豊後勢與秋月筑紫挑戦之事 P.317
  9. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)74 十時(正道)家文書 一二一 御書写 (5) 戸次道雪感状写 去十八於鳥飼村、最前砕手被被疵候、感悦無極候、必以時分一稜可賀之候、恐々謹言、 七月廿八日 十時摂津守殿 P.723。
  10. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.47
  11. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 アーカイブ 2022年7月9日 - ウェイバックマシン p.86~87
  12. ^ 吉永正春『筑前戦國史』荒平城主小田部氏の最期 p.120~127
  13. ^ 安楽平落城 筑前大友五城
  14. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.103~104
  15. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 大鶴小田部戦死之事 P.322
  16. ^ 宗像記追考 P.538~540
  17. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.96~97
  18. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.88
  19. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.115~117
  20. ^ 吉永正春『筑前戦国史』潤野原・石坂・八木山(穂波合戦) p.139~141
  21. ^ 『戸次軍談』『橘山遺事』『陰徳太平記』
  22. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十二 筑前国所々合戦之事 P.324
  23. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一〇) 十時連貞小傳 P.243
  24. ^ 吉永正春『筑前戦國史』道雪、紹運、筑後出陣 p.200
  25. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.90
  26. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十五 統虎守立花城之事 P.421~422
  27. ^ 『評註名将言行録』P.244~245
  28. ^ 吉永正春『筑前戦国史』立花統虎の夜襲 p.200~202
  29. ^ 『立花遺香』 P.103~104
  30. ^ 『橘山遺事』 P.180
  31. ^ 『立花遺香』 P.87
  32. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』三十八 肥後一揆 起る P.108~110頁、三十九 統虎 平山城を救援す P.110~113頁、四十 統虎 有動氏を破る P.114~118頁
  33. ^ 中野等 『立花宗茂』P.52~54
  34. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515~519
  35. ^ 中野等 『立花宗茂』P.55~56
  36. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 八二 軍勢注文写 天正十五年五月廿七日肥後國住人隈部筑後守親永、柳川黒御門前にて御成敗之節出合申候御人数之覚 P.99~100頁
    御人数引廻 由布壱岐守惟次
    十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
    十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
    跡押 小野和泉守鎮幸
  37. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』四十四 黒門の戦い P.126~128頁
  38. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(三四)筑後柳河黑門前 天正十六年五月廿七日 P.18頁
  39. ^ 『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.102~105頁。
  40. ^ 宗像記追考 P.535
  41. ^ 大津籠城合戦記による。中野等 『立花宗茂』P.121
  42. ^ 『柳河藩享保八年藩士系図・下』第三分冊 十時 立花尚政感状写 今度於江上表一戦之刻、依被励粉骨其方与力被官中間或被疵或戦死之衆着到銘々令披見感入候、必至其方一稜可賀之候、恐々謹言、十二月二日 十時摂津守(連貞)殿 P.182。
  43. ^ 中野等 『立花宗茂』P.233
  44. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一〇) 十時連貞小傳 P.244頁
  45. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)十時攝津 865~866頁

参考・出典

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  • 三百藩家臣人名事典7 (新人物往来社
  • 小説 立花宗茂 上/下。 童門冬二。
  • 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』柳川市史編集委員会/編 福岡県柳川市、1997年(平成9年)3月発行。