北畠師重
鎌倉時代後期の公卿。後宇多院の側近。正二位権大納言。北畠家3代。子に北畠通房、親家(醍醐寺)、源助
北畠 師重(きたばたけ もろしげ)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言北畠師親の子で、母は法勝寺執行宗顕法印の女である。北畠親房の父。北畠家は代々大覚寺統への忠誠に篤く、師重も後宇多院の側近として仕えた。
時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 文永7年(1270年) |
死没 | 元亨2年1月13日(1322年1月30日) |
改名 | 経覚(法名) |
別名 | 土御門、万里小路 |
戒名 | (伝)法隆院円超経覚 |
墓所 | (伝)和歌山県和歌山市西汀丁、長覚寺[1] |
官位 | 正二位権大納言 |
主君 |
亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 →後伏見天皇→後二条天皇 |
氏族 | 村上源氏中院流、北畠家 |
父母 | 父:北畠師親、母:宗顕法印女 |
兄弟 | 師重、雅世、親子 |
妻 | 五辻忠継女、藤原隆重女 |
子 | 親房、実助、冷泉持房、通房、親家 他 |
経歴
編集文永8年(1271年)1月正親町院の当年御給により、2歳で叙爵される。以後、石見守・左近衛中将を経て、正応4年(1291年)3月後宇多上皇の当年御給により、従三位に叙されて公卿となった。同5年(1292年)12月右衛門督、同6年(1293年)1月正三位に叙任され、永仁2年(1294年)12月参議、同3年(1295年)12月権中納言へと累進する。同4年(1296年)には左衛門督・検非違使別当を兼任したが、間もなくこれらを辞し、同6年(1298年)1月従二位、同7年(1299年)1月正二位に昇叙される。乾元元年(1302年)11月中納言へ転正し、嘉元元年(1303年)8月権大納言に任じられた。
嘉元3年(1305年)9月亀山法皇の崩御に際しては素服を賜ったが、除服後の12月には権大納言を辞して、長男親房を権左中弁に申任し、直後に本座を聴許される。徳治2年(1307年)7月後宇多上皇の落飾に殉じて出家し、法名を経覚(一説に深覚)という。以来、遁世隠居の身で過ごすこと15年、元亨2年(1322年)1月13日薨去した。享年53。
系譜
編集- 父:北畠師親(1244-1315)
- 母:宗顕法印女
脚注
編集- ^ 『和歌山県史蹟名勝天然記念物調査会報告 第3輯』 和歌山県、1924年。
参考文献
編集- 中村直勝 『北畠親房』 星野書店、1932年、NCID BN08314041
- 久保田収 『北畠父子と足利兄弟』 皇學館大学出版部、1977年、NCID BN04866771
- 川島孝一 「北畠師重」(安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社、1990年、ISBN 9784404017574)