五辻忠継
鎌倉時代中期の公卿。五辻雅継の次男。母は安倍春元(雅楽頭)の娘。従三位・参議、美濃権守、出家
五辻 忠継(いつつじ ただつぐ)は、鎌倉時代中期の公卿。非参議五辻雅継の二男。官位は従三位参議、美濃権守。
時代 | 鎌倉時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 建治3年7月20日(1277年8月20日) |
改名 | 忠継→了恵(法名) |
官位 | 従三位、参議、美濃権守 |
主君 | 四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇 |
氏族 | 花山院家庶流五辻家 |
父母 | 父:五辻雅継、母:安倍春元の娘 |
兄弟 | 兼継、忠継 |
妻 | 卜部兼直の娘、平高輔の娘 |
子 | 経氏、宗親、宗氏、忠子、北畠師重室、恵一 |
特記 事項 | 後醍醐天皇の外祖父 |
両統の外戚
編集父・雅継は非参議であったが、忠継は参議に列した。ただし在任期間は短く、参議を辞した後に従三位以上の位階に昇ることはできなかった。しかし、忠継薨去後に子孫がはからずも後醍醐天皇と後伏見天皇の外戚となる。
経歴
編集以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 文暦6年(1235年)9月10日、侍従に任ぜられる。
- 嘉禎3年(1237年)11月3日、従五位上に昇叙。
- 暦仁2年(1239年)1月23日、能登権介を兼ねる。
- 仁治元年(1240年)10月24日、左少将に任ぜられる。同年12月12日、正五位下に昇叙。
- 仁治3年(1242年)1月5日、従四位下に昇叙。同年10月3日、紀伊守に任ぜられ、同日左少将に還任。
- 寛元4年(1246年)1月7日、従四位上に昇叙。
- 建長3年(1251年)1月20日、左中将に転任。
- 建長6年(1254年)1月7日、正四位下に昇叙。この時、中将を止められる。同年閏5月15日、左中将に還任。
- 弘長元年(1261年)3月27日、蔵人頭に補される。
- 文永2年(1265年)10月25日、参議に任ぜられる。
- 文永3年(1266年)1月6日、従三位に叙される。同年2月1日、美濃権守を兼ね、同日中に参議を辞した。同年3月3日、本座を許される。
- 文永5年(1268年)10月5日、出家。法名を了恵とする。
- 建治3年(1277年)7月20日、薨去。